69年にホンダがCB750FOUR(ホンダ・ドリームCB750FOUR)を発売し、同年カワサキは500SSマッハIIIを発売し。そして72年にカワサキのZ1が発売されて、CB750FOURと共に世界一のバイクは日本車だと言うのを知らしめて。70年代はその後続くように、スズキ・GS750、ホンダ・CB900Fと言った高性能車が次々に発売され。70年代は日本の二輪車が飛躍し、世界を席捲した年代になりました。
前はバイクの歴史、1960年代編。ホンダはマン島TT。そして世界制覇へ。
参考書籍
CB750FOURが出る前は・・・。
70年代前半の日本車と言えば、ホンダCB750FOURとカワサキZ1が台風の目だった事は間違いないと思います。
それ以前までは今も続くホンダ・スーパーカブと言う、小さいバイクでは市場を圧倒したモデルは有りましたし。レースの世界でも二輪は61年のマン島TT、四輪では65年のF1での初優勝と、結果をだしていました。しかしバイクと言えば英国車とハーレーといった時代で。カワサキのW1に代表されるよう2気筒エンジンや単気筒のエンジンで。英国車を模したような2番手、3番手のバイクという評価が日本車の位置づけでした。
イギリスではカフェレーサーや(カフェに集まってレースをする)マン島TTのようにレースに熱狂する人は多かったので、ロードスポーツと言えば英国車でした。日本やアメリカではまだまだ未舗装路も多く、当然ダートトラックやエンデューロのようなオフロードバイクが道路にはマッチしていると言えますし。そういったバイク達は今もそうですが、2気筒や単気筒が中心だった訳です。
カワサキ、ヤマハ、スズキは・・・。
カワサキは目黒製作所を吸収合併し、目黒の伝統を引き継いだカワサキ650 W1を販売していました。日本の4ストロークでは最大排気量で有ったものの、振動が強く故障が多かった為に販売面では奮わず。他のラインナップと言えば2ストロークばかりでした。60年頃のカワサキのシェアは2%程だったと言われ。カワサキ重工の二輪部門は窮地に立たされていました。
立て直しを図りたかった中で、アメリカではゼロヨンの人気も有った為。ともかく世界一をやろうと。今までの日本車には無い斬新な世界最速マシンを作るという事で、カワサキの中心で有った2ストロークで69年初頭に「じゃじゃ馬」。500SSマッハIIIが発売されました。
マッハは250cc2気筒初のロータリーバルブで有ったA1の、排気量アップモデルであるA7に1気筒足したようなモデルとなりました。
60年代はヤマハやスズキも同じように2ストが中心でした。ヤマハはオフロードバイクというジャンルを作り出した68年のトレール250DT-1やスクーターのSC-1。55年にヤマハ初のバイクとなるYA-1も2ストロークのエンジンでした。
元は織機メーカーで有り、二輪のみならず四輪も作っていたスズキは。54年に原付のデビュー作とも言える4ストコレダを出していましたが。主力の軽自動車の小さい360ccエンジンである、ジムニーやフロンテに載せていたのは2ストのエンジンで。当時のライバルで有った4ストのホンダ・N360。ホンダお得意の高回転高出力のエンジンに対して。2ストエンジンでは、低回転からの強いトルクで対抗し。スズキと言えば2ストロークのエンジンで有りました。
レースの世界では既に結果を残していたホンダは・・。
対してホンダはレースでの活躍実績で4ストには自信を持っていました。60年に247ccの4ストロークSOHC空冷2気筒の、ドリームCB72スーパースポーツを発売し。スーパースポーツの名前通り、低いハンドルとバックステップで前傾姿勢を要求する。ホンダの強みである、小型ながらも精密で良く回るエンジンで。マン島での活躍をアピールするようなバイクで、北米ではHAWKの名で親しまれました。その後CB72の排気量を305ccまで上げた、ドリームCB77スーパースポーツも販売されるまでになりました。
カブやCB72、CB77のような小さなエンジンでは成功した物の。世界最速のスーパースポーツのカテゴリでは、その頃の中心で有った英国車にかなう物では有りませんでした。何故ならば日本にはそんな車両を走らせる舗装路が少なかったからです。ならばとホンダは60年代最速と言われていた、649cc OHV2気筒で46馬力を誇っていたトライアンフ・ボンネビルT120をターゲットにし。ホンダの技術力ならば450ccで匹敵出来ると考えて開発され、ホンダの大型車では初となる444cc空冷4ストローク2バルブDOHC2気筒、43馬力を誇る。ホンダ・ドリームCB450が65年に発売されました。
CB450は4輪車のN360にもベースにされたエンジンです。
しかし北米では前述の通り、ダートトラックの人気が有り。ホンダのお家芸とも言える空冷4ストロークで有りながら、高回転でパワーを稼ぐ小さくて精密なエンジンよりも。英国車達のように大排気量による、低回転からのトルクの方がダートトラックには必要であったし。アメリカのように広大な道を走るのは、余裕の有る大きなエンジンの方が好まれた訳です。そんな中トライアンフは更に4ストローク3気筒750ccのエンジンを開発すると情報が入りました。ホンダはこれまでは高回転でパワーを稼ぐ考え方でしたが。CB450のアメリカで「一部のマニア向けのジャンル」と言う使われ方を見て。排気量に勝るものは無いと結論づけたのでした。
散々海外からは大きなバイクを作れと言われていたそうですが、日本人の間隔としては450ccでも充分と思うのですが。本田宗一郎が外遊でスイスに行ったときに、白バイから降りて来たお巡りさんを見て、小さなバイクに乗って来たなと思ったら。それがトライアンフの750ccだった。日本人の間隔で作っていたらダメなのだと思ったそうです。
ホンダは既にこの頃、S500(600)と言う水冷4気筒DOHCエンジンの四輪車を市販していました。60年代のマン島などで戦ったGPマシンは。250cc以下の小さな車体には有利な軽い2ストのエンジン車に対して。ホンダは4ストのマシンでパワーで圧倒して結果を残してきたのです。2輪車の4ストエンジンには自信を持っていました。
しかしDOHCエンジンのCB450はOHCに比べ高回転型でピーキーになりやすく、初期型は4速で有った為。パワーバンドを維持するのが難しく、さらに当時の日本では重量車で有り。未舗装路ばかりの道路事情には有っておらず、広告には「初心者にはおすすめできません」と書いてありました。恐る恐る乗ると曲がらないマシンと言われ、CB77(305cc)から練習して乗り換える人もいる程でした。
この頃レースの世界でホンダは、350cc以下の小さな排気量のクラスで戦っていて。全て制覇はしていたものの、500ccクラスではまだ参戦していませんでした。65年に500ccにも参戦し。翌年66年には空冷4ストローク並列4気筒DOHC4バルブのRC181で、WGP全クラスで制覇を果たし。この年は全クラスを制覇した初めてのメーカーになりました。
レースの技術屋としては世界一をはっきりと示したホンダが、CB450でやっと英国車に並んだ所で満足する筈が有りません。驚異的な販売数によるカブだけの世界一だけでなく。頂点で有るRC181のように、一番上のクラスで世界一を示すべく。トライアンフ等の英国車を凌駕するマシンを。技術屋のプライド全てを投入して、真っ向勝負に挑んだ訳です。その結果69年にナナハンブームを起こした名車、CB750FOURが出来上がり、6月頃に発売されました。
CB750FOURが発売して
トライアンフ・ボンネビルT120はその名の通り、120マイル(約193㎞/h)を示したバイクでしたが。CB750FOURは、空冷4ストローク2バルブSOHC4気筒のエンジンによって、市販車では世界初の200km/hを超えるバイクとなりました。CB750FOURは一言で言えば何もかも凄かったのです。
CB750FOURは、ホンダのGPマシンそのものを量産車でやったようなモデルとなりました。ホンダがGPで得意としていた直4エンジンは、既に四輪車で作っており。実現は容易かったように思えますが。試作エンジンは大きくなりすぎて、設計変更を何度もしました。2輪の量産車初となったディスクブレーキもドラムブレーキと並行して開発していましたが。本田宗一郎の「ディスクで行けよ」の一言で開発者も決心したそうです。
CB750FOURが出た後、他社も中々採用出来なかった一体型クランクのメタル軸受けクランクシャフトを採用します。「ヤマハ」のトヨタ・2000GTも6600RPMが上限回転数で有り、高回転型の二輪車には不安が有りました。大同メタルに耐久性の有るものを依頼しました。
ホンダの技術では既に6気筒DOHCエンジンも作れたと思いますが、CB450のDOHCエンジンの低速トルクが無いイメージを払拭したかった。アメリカではMV600は2889ドル、BMW・R69Sは1648ドル、トライアンフ・T120Rは1375ドルに対して、CB750FOURは1495ドルと性能に対して非常に安かった。
カワサキはZ1を開発へ
そんな中に次世代として、750cc4気筒を積むスーパースポーツ車を、マッハⅢと並行する形でカワサキは開発していたのですが。先にホンダ・CB750FOURが出てしまい。打倒ホンダという事で設計をやり直しました。69年のCB750FOURに対して、Z1は72年と開発に時間がかかった物の。903ccにした結果、今も根強い人気となる名車のZ1が産まれました。そしてZ1の開発に時間がかかる事を考慮して、500SSマッハⅢの排気量拡大バージョン。750SSマッハⅣも同時期に開発されました。
Z1はクランクやカムシャフトにクロモリ素材を使ったり。1200ccまで大きくする事を視野に入れた、空冷4ストローク2バルブDOHC4気筒903cc、世界最速で頑丈なエンジン。そして火の玉カラーのタンクや黒く塗られたエンジン、テールカウルや砲弾メーター等。世界最速ながらも新しい、芸術的なデザインによって。瞬く間に大人気となりました。
一方マッハⅣの方は、ゼロヨンのような加速性能はZ1に引けを取らないものの。発売時期にオイルショックにあい。特に北米では2ストの燃費の悪さやマスキー法による、排ガスと騒音が徐々にイメージが悪くなる中。マッハⅢはパワーダウンに伴いKHと名を変えモデルチェンジをして、77年まで生産されましたが。マッハⅣの方はZ1の大成功も有って、75年で生産終了する事になりました。
カワサキは同時期に250cc、350cc、400ccクラスも同じ空冷2ストローク3気筒のエンジンを搭載した、マッハシリーズを販売しています。
ヤマハとスズキは
一方2ストを得意としていたヤマハとスズキ。ヤマハは重厚感の有る新型のCB750に対して、当時としてはオーソドックスなバイクを作り。コンパクト&スリムのコンセプトで対抗しました。CBのように新時代の4気筒では無く。今までの英国車のような653cc・OHC2気筒で、XS-1を70年に発売しました。乾燥重量約220㎏のCBに対して、XSは185㎏。最高出力こそ67馬力のCBに53馬力で差を付けられているものの。2気筒・360度クランクらしいトルクフルのエンジン特性と、ドコドコと歯切れの良いサウンド。スリムな車体と重量、カタログには加速の名車と書いてある通り。CBよりも手に余らない車体と、ロングツーリング等での乗りやすさをアピールしたバイクでした。
XS-1はヤマハ初の4ストエンジンで有り。トヨタとトヨタ・2000GTを共同開発したり、4ストのエンジンのノウハウは無い訳では有りませんでした。しかしホンダのF1参戦でエンジンパワーが有っても中々勝てなかったように、2輪と4輪のエンジンでは違う部分が多く。エンジンの開発には苦労しました。
エンジンの始動はキックのみで、失敗すれば必ず跳ね返ってくると言うスパルタンな仕様でした。カワサキ・Wのように、センタースタンドを立ててエンジンを回すと動いていくような振動が強いバイクで。W1よりも振動が強く、オイル漏れのトラブルも有ったり。CBを意識してスポーティさを求めたコンセプトの為、Wよりもエンジンを回して走るようなステージが似合い。回すと振動がどんどん強くなる、その後のSR500のような荒々しい加速は病みつきになると評価されたり。アメリカでのダートトラックレーサーに改造されるような使い方には需要が有ったものの。日本ではそういう使い方の需要が少なく。CB750FOURの牙城を崩すようなセールスには至りませんでした。
何故2気筒だったのかは、ヤマハが傘下にした昌和製作所。昌和は日本高速機関を吸収していて。その会社の500cc・ホスクDB型が、同じレイアウトだからでは無いかと言う話も有ります。
スズキは2ストを更に強める方向へ
一方スズキは上述のように、スピードメーターを初搭載したコレダで、4ストの二輪車を作ったものの。その後のモデルチェンジでは2ストに移行して、四輪と同様にスズキと言えば2ストエンジンでした。CB750FOURやマッハⅢが出る前の68年に、スズキは492cc・2スト並列2気筒のT500を出しており。CB750FOURに対抗して作った二輪車はそのままの流れで2ストのGT750を開発し対抗しました。
スズキの2ストは、四輪ではより重要視されている。低回転からのトルクの強さ、加速力、扱いやすさを重視していて。カワサキ・マッハⅢや、その後80年代中後半の2ストレプリカ達の。スピードをひたすらに追い求めたピーキーさとは、全く違うエンジン特性です。
71年に発売されたGT750は水冷エンジンで。CB750FOURと同程度の67馬力を出したものの、車両重量も235㎏(乾燥重量)と重く。ウォーターバッファローのニックネームを得ました。65年に発売された四輪車で有る、フロンテ800の技術を生かす事で。マッハⅢと同じ3気筒で有るものの、空冷では真ん中のシリンダーの冷却問題を水冷で対応しました。(マッハⅢはエンジンとフェンダーを離す事で対応した結果。前後の重量バランスが悪くなった。)
2ストらしからぬ、扱いやすいフラットなエンジン特性と車重で。スーパースポーツと言うよりかは、ツアラーに近い方向で愛されていますが。アメリカではオイルショックや、2ストの排ガスが問題になってきていたので。大ヒットを飛ばすまでには至りませんでした。
ちなみにフロンテ800は販売が奮わずに、スズキはそれからしばらく四輪は軽自動車だけに生産を集中する事になりました。
ミドルクラスとしては、350cc等のカワサキ・(ミドル)マッハシリーズに対抗し、50年代から続いていたコレダ・TシリーズをGTに名称変更して。世界一速い250ccを目指して作られた65年コレダ250T20をモデルチェンジし。71年にGT250を発売しました。そして2気筒のGT250から1気筒足して、3気筒にしたGT380(通称サンパチ)が発売されました。120°クランクの2ストローク3気筒は直列6気筒のフィーリングに似ていて。スズキの2ストらしい扱いやすさと、車体の軽さで。当時は未舗装路がまだまだ多い中、オフロード走行も行けると評価されました。
またT500をモデルチェンジし、71年にGT500と名前を変えて。2気筒から3気筒へとチェンジした、GT550を販売します。GT380と同様に、兄貴分GT750の水冷ではなく。シリンダーの上部に特徴的なフィンの付いた、ラムエアシステムを使って。水冷のような冷却効果を得る事が出来ました。
ヨシムラの集合管
アメリカでの市販車ベースのレース。76年から始まったAMAスーパーバイク選手権では。日本のチューナーで有ったヨシムラが、CB750FOURの改造車に黒い集合管を付けたり。Z1が出てからはカワサキとタッグを組んで、世界最速の記録を作ったり。レースでも活躍してヨシムラの名を知ら締めました。
カワサキ・Z1の大成功を治めてからは・・。
カワサキはZ1の成功で、コンセプトで有った1200ccまで行けるエンジンを中心に。76年のZ900、Z1000。その派生モデルのZ1-R。78年のZ1000MK-2と徐々に排気量を上げながら、マイナーチェンジを繰り返していく方向へ行きました。
カワサキはZ1を国内で販売するつもりでしたが、750ccまでが日本で売れる二輪車の規制になった為。国内モデルとして750RS(Z2)を開発し、CB750FOURと並ぶ人気を得ました。
スーパースポーツの基準がZ1になった。そしてスズキとヤマハは
初の4ストで有るXS-1を出してたものの、ヤマハは高性能化と言う意味では苦労していました。XS650にマイナーチェンジをして。その後のXS650-Eにはディスクブレーキとセルモーターを搭載しました。73年のTX650へと名前を変えたモデルチェンジでは、フレームの剛性を上げたりしました。そして英国車を強く意識したXSから、72年にバランサーを搭載した750ccのTX750やTX500を出したりしたものの、防振に伴うエンジントラブルに悩まされ。ヤマハのこのクラスの4スト2気筒達は、どれも大きなヒットを飛ばす事は出来ませんでした。
2ストのGT750から更に斜め上に行くスズキ・・。
CB750FOURの対抗馬としては、いまいちパンチの足りなかったGT750でしたが。唯一の日本メーカーによる、ロータリーエンジンのRE5をスズキは74年に発売します。フロンテをデザインしたジウジアーロ氏のデザインも斬新ですが、燃費の悪いロータリーエンジンで有るので。重なったオイルショック時に悪戦苦闘する事になりました。
しかしローター内の冷却はオイル、その外側のハウジングを水冷とするなど。ロータリーエンジンの冷却を研究した結果。後にスズキの独自路線となる、油冷エンジンへと繋がっていきます。
ホンダはCB750FOURからの派生モデル。CB400FOURが。
ホンダはCB750FOURがヒットし、それにあぐらを掻いていた訳では有りません。カワサキのようにCB750FOURは毎年のように、マイナーチェンジを続けていきます。そして77年までCB750FOURは生産されました。CB750FOURは当時の日本人の体格には大きすぎるという事で、一回り小さいCB500FOURを71年に発売しました。まだ大きいという訳で、更に一回り小さいCB350FOURを72年に発売しました。CB750FOURと同様の4本出しマフラーや、フロントディスクブレーキ、重厚感のあるデザインは同じですが。それによってコストがかかったミドルクラスの車両になってしまった。更にCB350FOURは2ストより遅い4気筒と言われました。
速さ、軽さで言えば同クラスのカワサキの350SSマッハⅡや。スズキ・GT380、ヤマハ・RX350と言った2スト勢には勝てるものでは無いし。更に同年のラインナップに有った4スト、2気筒のホンダ・CB350セニアにも勝てるものでは無く。価格も20万円前半の2スト勢(サンパチは24.5万円)とセニアに比べ、CB350FOURは26万5千円でした。
CB350FOURのコストを抑える為に、ヨーロッパのカフェレーサーを意識した、ホンダ・ドリームCB400FOURを74年に販売しました。
CB400FOUR(通称ヨンフォア)は出た翌年の75年に、中型限定免許の免許改正が有った為、408ccの当機は振り回される結果に。
免許改正に振り回される事は、昭和27年(1952年)カブFの時も有りました。「自転車+補助エンジン」は、軽車両扱いだった所に「原動機付自転車」が出来て。90cc以下の二輪車は軽免許や二輪免許が必要なくなった恩恵は得たものの。カブFはそれらとの有利性が無くなったように。同じような事は既にホンダは経験していました。
76年に398ccを出すものの、2種類のエンジンとフレームになってしまい。CB350FOURからCB400FOURのモデルチェンジに求めていたコストカットを実現出来ず。3年程で生産終了になり、その後400ccクラスの4気筒が無くなった為、中古車の価格が跳ね上がりました。
CB400(350)FOUR以前から、ホンダのこのクラスのマシンは、市販車では2気筒を得意としていて。ホンダの旗艦は1965年のCB450や、それ以前の北米ではHAWKの愛称で有ったCB72(250cc)の2気筒車で有り。実績に裏付けられた自信が有ったのです。4ストメーカーだったホンダは。スズキ・GT380やカワサキ・350SSと言った、軽量の2ストに対抗馬としていたのは、重い4気筒のCB400FOURでは無く。軽い2気筒のマシンだったのです。そのCB72(77)の血統を継ぐCB360TがCB400FOURと同じ74年のラインナップに有ったのです。
「ヨンフォア」はアメリカのクラブマン(アマチュア)レースでは、ヨシムラやヨシマ・オンタリオ等によって460ccにされる使われ方をしたり、CBXが出てもCB400Fに乗りたい人が居ました。
それだけCB400FOURは、異質な存在だったと言えるでしょう。
北米向けにツアラーのジャンル。GL1000ゴールドウイングを。
その頃のホンダはチャレンジ精神が強く、四輪では73年年末には既に厳しい排ガス規制のマスキー法を最初にクリアした、CVCCエンジンを搭載したシビックを日本では発売していました。
そして現在も北米向けのフラッグシップモデルで有る、ゴールドウイング名を持つGL1000・ゴールドウイングを74年に発売しました。CB750FOURやカワサキ・Z1のような世界最速のスーパースポーツとはまた違う。他車種にはない「究極の二輪車」を1から作り上げる事になりました。開発にあたってはM1と言う水平対向6気筒のプロトタイプを作りました。これが1470ccとCB750FOURの倍近いエンジンも凄いですが、BMWのミッションやシャフトドライブを流用し、エンジンの後ろに付けた為。全長が長くなると言うとんでもない代物でした。エンジンはシビックの開発での技術を流用したようで。4気筒のGL1000とはまた別のテスト車となりました。この試作車によってホンダは6気筒を採用するのをやめて、GL1000は4気筒になったそうです。
GL1000は999cc・4気筒の水冷、水平対向エンジンで、ミッションはエンジンの下部にレイアウトし。ドライブシャフトで駆動するという、低重心かつスムーズなエンジンフィール特性で。まさにアメリカのハイウェイを走るに、うってつけの「グランドツアラー」が出来上がり。高級路線で有るホンダ・ゴールドウイングのブランドを作り出しました。
GL1000は重心の安定化を考えて、上部のタンクはダミーで電装系や小物入れ等になっていて。重くなる燃料はサイドカバー部に収納されている非常に独創的なレイアウトとなりました。ただしカワサキ・Z1より価格が500$程高く、大ヒットを飛ばすまではなれませんでした。
ゴールドウイングは2代目からは更にアメリカ人が求めていた、大型のフェアリングやオーディオシステムを付けるなど改良され。その後のCBX(1000)や、日本国内での750cc以上解禁等に絡んできたりします。
CB750FOUR-Ⅱを出したものの、ホンダは欧州で苦戦する
Z1の対抗馬にならなかったGL1000。ホンダの次の手は74年に発売されたCB400FOURのような、集合管やリアディスクのブレーキ。カフェレーサースタイルを取り入れ、CB750FOURにスポーティーさを強めたモデル。CB750FOUR-Ⅱを75年に発売します。しかしアメリカではCB750FOURの重厚感を捨ててしまった、FOUR-Ⅱは受け入れて貰えませんでした。
更に70年代後半に入ってくると。ヨーロッパではカワサキ・Zの人気に押され。北米を強く意識したGL1000やCB750FOURをヨーロッパ向けに、仕様変更したくらいのモデルでは納得されず。販売店に売るものが無いと言われてしまう始末になり。CB750FOURの次世代モデルは、ヨーロッパ向けに開発をする事になります。
70年代中盤に入っても、CB750FOURとZ1が余りにもエポックメイキングであったため。産み出したホンダとカワサキですら、超える物をまだ産み出せずにいました。
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