バイクの歴史、1960年代編。ホンダはマン島TT。そして世界制覇へ。

旧車の歴史

バイクの歴史、戦後~スーパーカブの発売(1950年代編

バイクの歴史。CB750FOURが登場し、日本車が世界を席巻した70年代まとめ。前半

この回は殆どがホンダのレース活動の話です。第一回浅間高原レースで、125ccクラスではヤマハとスズキに惨敗したホンダでしたが。本田宗一郎は雪辱に燃えると言うよりは、WGPの制覇、四輪参入、F1制覇、世界一のメーカーへと。ずーっと先を見ていたのでした。

安価で走破性の高いスーパーカブが1958年(昭和33年)に発売され。1960年代、ホンダはマン島TTを制覇し。WGPも制覇するのですが、そこに立ちはだかるのはヤマハや、スズキと言った浅間でかつて戦った。日本メーカーなのでした。

この時代戦ったマシンと言えば、多気筒、多段ミッション化と。精密加工を得意とする、日本のお家芸なのでした。

ホンダとヤマハの闘い。第二回、第三回浅間火山レース

第一回・浅間高原レースは翌年の2回目開催はしませんでした公道を閉鎖してのレースだった為制約が多く。次は専用コースでやりたいと言う話になり。候補地として淡路島や岩手の小岩井農場などが上がりましたが。第一回と同じ群馬県、荒れていた浅間牧場に話が行き。社団法人浅間高原自動車テストコース協会が設立され。東京発動機205万円、本田技研213万円、鈴木自動車130万円と言った出資金と。通産省の300万円で浅間高原自動車テストコースは開設しましたヘアピンカーブや複数のカーブの有る本格的な未舗装路の全面ダートコースで、将来的には舗装路にするつもりでしたが。目黒製作所や丸正自動車のように、協会加入の出資社の倒産が相次いだり各社は独自にテストコースを作り始めた為、達成する事は有りませんでした。

浅間山をバックにした本田宗一郎(左から4人目)とHondaのライダーたち(ホンダのホームページから)

このレース場で1957年10月に、第2回浅間火山レースが行われ。1杯あおってから走り出さないように、「酒気帯び運転はしない」等細かいルールが決められました。

スズキはレースよりも実用車に資金をかける、と言う事で参戦しませんでしたが。前回は125ccクラスで惨敗を期した雪辱に燃えるホンダと。1位~4位まで独占したヤマハとの戦いは、対照的な思想のマシンで争うのでした。

レーサー然とした見た目でも、やはりブロックタイヤ。ヤマハのHPより転載

125ccはYA-1を改造したYA-A、250ccは並列2気筒のYDとヤマハは2ストホンダの125ccはベンリィC80Z、250ccはC70Zの4ストと言うのも有るのですが。ホンダは社内ライダーで固めてるのに対して、ヤマハは販売店に速い奴を推薦して貰うチーム作り。テレスコピック式のヤマハ、ホンダはボトムリンク式。ヤマハはドルフィンと呼ばれるカウルを付け、低く肩幅より狭いハンドルで。オフロード路面にハンドルの抑えが利くのか、本田陣営から見れば疑問にしか見えなかった

ヤマハのHPから転載。

2ストに勝てぬ、ホンダの4ストローク

第2回浅間火山レースの結果は、125ccがヤマハがワンツーフィニッシュで。ホンダは3位、4位250ccも1位~3位をヤマハが独占すると言う、ホンダ陣営にとっては最悪の結果となりました。ホンダは4ストに不利な軽さを、エンジンパワーで何とかすると言う考えで、ストレートこそ速かったのですが。ヤマハのカウルは前のマシンが跳ね上げる土を避けクッションの長いテレスコピック式に計算された短いハンドルで。小排気量では軽い車体と操縦性に勝るヤマハが勝ちましたが、350cc超はパワーで勝るホンダの1万回転以上回るSOHCエンジンが強さを見せるのでした。世界にも少ないSOHC・2気筒のエンジンは日本のエンジンが誕生したと位置づけられるものでした。

レースに出る事、ましてや勝つことに巨額の費用が掛かる事で、次年度は浅間火山レースを開催する事は出来ませんでしたが。代わりにアマチュアのレースを開催した事が、新しい世界を見せるのでした。

ヤマハのレーサー=明日の市販車

浅間でホンダに勝利したヤマハは、レーサーの250cc・YDを公道用バージョンに燈火系加えたモデル。国産車初とも言える、誰でも買える「レーサーレプリカ」のヤマハ・250S(その後YDS1となる)を59年に発売します。初の5速ミッションや、モトクロス用のキットが揃えられて。他社の後のモデルにも影響を与える事となりました。

YDS1 楽器のヤマハらしいカラーリング

58年にヤマハと契約していた伊藤史郎が、初の海外レースとなるアメリカのカタリナGPで6位入賞を果たして。YDSはカタリナのニックネームが付けられました。YDSの系譜は69年にヤマハがWGPを休止したのに変わって作られた市販レーサーの、TD-2、TR-2へと受け継がれていきます。

ホンダ初めてマン島TTへ。井の中の蛙大海を知らず。

ホンダは「本物のロードレーサー」である、モンディアルの1956年型ワークスマシンを購入し。徹底的に研究し。完成した125ccのレーシングマシンを、ホンダのテストコース、1500mの直線で有る荒川土手で試運転に。1951年、52年とマン島TTを制覇したジェフ・デュークを招いて、試乗してもらいました。「まあいいだろう。グッドだ」と言う答えを貰い、スタッフもこれで闘えると奮起し。なんとしてでも勝ちたいと言う心境になりました。

荒川河川敷の高速テストコース ホンダのHPから転載
ノートンマンクスとジェフ・デューク。wikiより転載

50年代末までは、日本製のものはコピー品と言われても仕方ないような。まだまだ独自のデザインと言われるまでは至っていない時代でした。徐々に給与水準も上がってきて、まだまだ二輪車は高い買い物では有ったものの、身近な物になり始めていました。そして中でもスーパーカブのようなオリジナル製の強い商品が生み出されるようになってきました。そしてマン島TT出場宣言から、本格的なレーサー開発部門が出来たホンダは。ワークスマシンとして125ccクラス、DOHC空冷2気筒2バルブのRC141を作りました。

RC141

監督はドリームE号を開発し、台風の中箱根の試走をしてぶっちぎり。オヤジに「バカヤロー」と褒められた?河島喜好氏整備主任は中島飛行機で「この人が最終調整したエンジンは絶対に信頼できる」と言われていた、関口久一氏で。二人とも根っからの技術屋でした。日本車が一気に世界に昇り詰めたのは、世界一の戦闘機で有ったゼロ戦の。日本の技術者達の力が有ったからこそ。戦後の自動車産業を発展させたのです。

出典 http://www.iom1960.com/suzuki-giichi/suzuki-giichi.html 一番右から関口氏、2番目が河島氏

海外旅行が自由化される前で、関連会社の社員や。出場者の家族。親戚と言った所まで見送りに来て。羽田空港は賑やかなムードで送られました。通関では全員が制限いっぱいの荷物を持ってた為。密輸の疑いをかけられ。通るのに時間が掛かりました。マン島へ着いた一行は、初めての日本人の客という事で。日本人は床に寝ると思われ、ホテルにはわざわざベッドが片付けられていました。米や漬物も持って行ったので、経験の無い匂いにはびっくりしたのでは無いでしょうか。

1959年初出場のマン島TTには、今までの市販車ベースで無い足回りやフレームで、イギリスの2輪雑誌には剛性不足やバネ下重量増を指摘されました。しかし反対にマシン各部の工作部分の仕上げや、ヨーロッパのレーサーを真似していない、独自の設計で有ると認められました。5台のレーシングマシンと4台の練習用マシン。充分すぎるスペアパーツと工具類は工場が引っ越してきたようだと例えられました。現場では持ちこまれたRC141の2バルブではパワーが足りない事が解り、急遽4バルブのRC142のエンジンヘッドを換装して出場する事になりました。

ベベルギア駆動のRC142エンジン
RC142とホンダチーム

外国のワークスチームのMVアグスタやドゥカティが、最新のマシンで本気で勝ちに来ている現場を見て。荒川のテストでは「グッド」と言われたものの、実際に最前線に立って、ストレートだけで無い、コーナーの速さの違いを見て。「井の中の蛙だったと」河島監督は言いました。ミーティングで「勝とうなんて思うなよ」と締めて。完走する事を第一の目標にしました。

そして初出場のマン島TTの結果は125ccのクラスで6位、7位、8位、11位の結果を残し。メーカーチーム賞をもらいました。日本初のWGPマシンとなったRC142でしたが、トップとは平均速度が10㎞/h近く差が有り。まだまだ世界トップのレーサーマシンとは差が有る事を痛感する結果になりましたが。実際に闘った事で「井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る」事となったのでした。

河島監督は結果を受けて、本田宗一郎に「3年ください、大海の蛙になる事を約束します」と。当時苦しかったホンダの懐事情の中で、懇願をしますが。当の宗一郎には最初からそんな小さな気持ちは無く、日本のモータサイクルの発展やアメリカ市場の開拓。そして世界一を見ていたのでした。

海外進出へ

初のマン島TT出場した59年に、ホンダは本格的に海外進出する為に。アメリカン・ホンダ・モーターを設立し。スーパーカブの手軽さがヒットした事や、WGPでのアピールも有って。61年にはヨーロッパにも現地法人を設立します。スズキとヤマハも後に続きました。

メーカー色を一切排除したクラブマンレース

1957年に行われた第2回目の浅間火山レースですが。3回目はお金がかかるため、1959年となりました。その間に浅間コースでアマチュアのレースをしたいという事で、全日本モーターサイクル・クラブが結成され。58年の8月にアマチュアによるアマチュアの為の、クラブマンレースが行われました。1.2回目の浅間火山レースでは日本メーカーによる日本車だけの「ワークス」レースでしたが、クラブマンレースはBMWやトライアンフ等も参加した事で違う様相見せるのでした。滅多に見られない外車が日本車とめいいっぱい闘うのは面白く。また日本人初となるWGPで勝利を挙げた、高橋国光と言ったライダーもクラブマンレースから生まれたのでした。

BSAと高橋国光

この年は台風の影響で、水浸しのコンディションでしたが。125ccは相変わらず軽量なヤマハ・YA-1が強く、250ccでは発売したばかりのホンダ・ドリームC70が勝ちました。C70は本田宗一郎が寺社巡りからヒントを得た独創的なデザインで。四角いデザインを取り入れた、神社仏閣の愛称で呼ばれました。

ドリームC70 神社仏閣

マン島から浅間へ帰って来たホンダRC142だが・・。

1959年の第三回・浅間火山レースは、前年にクラブマンレースが有った事に加え、同時に併催する事に。ヤマハファクトリーは参加しない発表でしたが。ホンダがマン島初参戦から帰って来た事で、庶民は二輪車へ熱を注ぎ、注目を集める事となりました。高橋や伊藤のようにどんな新人が表れるのか。大きな外車の走りはどうなのか。ホンダは「初代CB」のOHC2気筒・125ccのCB72を発売し、どういった走りを見せるのか。更にホンダは新しい250ccを作って来たフラグがビンビン立ってる中。通産大臣が開催の辞を述べる、自衛隊や消防団が運営に協力すると、お祭りのような盛り上がりを見せました。

1日目のクラブマン(アマチュア)レースでは、500ccクラスと500超ではBSAが勝ち。大型車はやはり外車が強い事を見せるのでした。125ccクラスではヤマハ・YA-1を12台。ホンダは神社仏閣のC70と後にCB92となるベンリィSSを24台参加させました。ワークス参加していないヤマハ、4年も発売から経っているYA-1は新しいホンダ車には勝てず。ベンリィSS(CB92)に乗る北野元選手が勝利しました。更にクラブマン250ccにもホンダ・ドリームSS・CR71に乗る、北野元選手が、ヤマハYDS-1を寄せ付けず勝利し。北野選手は翌日のファクトリー(ワークス)レースの参加資格を得ました。

CR71

北野選手のバックアップにはホンダの浜松製作所が付きましたが。相手には60年に研究開発部門を独立させる事となる。ホンダ技術研究所が総力を挙げて作った、マン島帰りのファクトリー(ワークス)マシンRC142がいました。市販車がレーサーに「勝てる訳が無い」と北野選手はぼやいたそうです。同じホンダだけで無く、スズキもコレダRBで参加しています。スズキこそ市販車にメーカーの威信かけて作った、ファクトリーマシンで負ける訳には行かないプライドが有り。北野陣営の浜松製作所からすれば、走れるだけで儲けもの。もし勝ったら面白い事になると、士気は高まったのでした。

RC142

そしていよいよ2日目の、第三回・浅間火山レース(全日本オートバイ耐久ロードレース)125ccクラスが始まりました。夜から雨が残っている中で、北野選手は晴れる事に掛けて、スプロケットを晴れようのセッティングに変えました。スタートしてからトップグループを維持した北野選手は、路面が乾いてくるとペースが更に上がり。周回を重ねるにつれ、コースはどんどん荒れて行きました。スズキ・コレダの伊藤光夫選手は序盤に転倒し、マン島で6位の谷口尚巳選手は5周目で転倒。北野選手がトップに立ち、マン島で戦った舗装路セッティングのRC142では追いつくことが出来ずに、そのままフィニッシュ。18歳の北野選手が勝った事で大観衆は興奮し、時の人となったのでした。ちなみに北野選手はその後の250ccレースにはホンダに配慮して?出ませんでした。

北野元はこの後ホンダワークス入りして、WGPへ

ホンダCBの始まり

ホンダCBとはクラブマン(CLUB MAN)のCとBを取って名付けられたと言われています。まだまだ二輪車は贅沢品だった時代で、「スポーツ車で有りながらも、ツーリング、ダート、ドラッグ、ロードレースを出場出来るマシン」と言うのがCBの開発趣旨でした。浅間のレースで北野選手とCB92(ベンリィSS)の活躍によって、CB92はオーダーが殺到するのでした。

神社仏閣のC90からC92へ
C92のスーパースポーツモデルがCB92

1959年発売の、ホンダ・ベンリィCB92スーパースポーツは(CB95{150cc}も同時に発売)。クラブマンレースに出る人の為に作ったマシン(CBはCLUB MANの略と言われる)で、初期はウインカーの無いモデルでした。(ちなみに58年のスーパーカブには付いていた)Yパーツと呼ばれるレース用のキットが用意されていました。道路事情も有って5000回転以下の低速トルクが薄い為に、誰でも楽しめるマシンでは有りませんでした。

CB72(通称ナナニイ) やはりウインカーが無い

翌1960年250ccのドリームCB72スーパースポーツが発売されて、CBは身近な存在になったのですが。GPレーサーからフィードバックしたパイプバックボーンフレーム(ダイヤモンドフレーム)や、フラットなハンドルと。GPレーサー風のスタイリングが、WGPでの活躍も有ってCB72ブームとなりました。CB72が「トップで70km/h以下では走れません」と書いて有っても、まだ乗りやすいと言われていたので。最初のCBであるCB92(ちなみにCB90にセルモーターを付けたのが、CB92と言われている)は、クランクが180度クランクと、360度クランクの二つの種類が用意されていた辺りにも。ホンダがCBの名を使う意気込み、気持ちが表れているのでは無いでしょうか。

ベンリイスーパースポーツオーナーズクラブCB92のウェブサイトより転載。CB90の発表は有ったようだが・・。

空冷4ストロークSHOC・250cc並列2気筒のCB72(ホークと呼ばれた)は、高速型の180度クランク車・タイプⅠと。実用型の360クランク・タイプⅡが作られる程、レースを意識したものでした。その後305ccのCB77(スーパーホークと呼ばれた)。68年のCB350(セニア)、CB360Tから更にCB400TホークⅡへと繋がって行くこととなります。

CB72はアップハンドルのCBM、実用車のCM72、スクランブラーのCL72とバリエーションが出る程人気が続いたのでした。

CBM72と思われる。62オールスターのMVP景品と張本勲。
CL72
59年にホンダはF150耕運機を作って汎用機エンジンにも参入した

ホンダはついに4気筒車を

右端が北野元。左から2番目が高橋国光。浅間レースの活躍でホンダワークス入り。RC161。1960年

北野選手で大盛り上がりだった125ccでしたが。250ccクラスにはホンダ初となる空冷4気筒・4バルブDOHCエンジンの化け物、RC160をお披露目します。RC160はRC142のように、元々がマン島TTに出場させるべく開発していましたが間に合わず浅間に合わせたアップハンドルで出場しました。

アップハンドルにブロックタイヤの浅間仕様RC160
こちらはハンドルが低い

4気筒のエンジンは自動車では縦置きだったのに、それを横に置いてバイクに搭載する。そして14000RPMで35馬力を発生する超高回転エンジンは、雷のような初めて聞くサウンドで。観衆は陶酔するのでした。レースがスタートすると重量の有るRCは、軽い2ストの市販車ヤマハ・250Sに遅れを取るもののストレートでは圧倒的な速さを見せ、ヤマハファクトリーが参加しなかったのも有って、RC160が1位~3位を独占したのでした。

石原裕次郎が広告に。140キロのキャッチコピーは今は無理でしょうね。

第四回目の浅間レースは、コースが未舗装路で危ないという事。各社の出資で成り立ってたが、それぞれテストコースを作り始め、舗装する資金が集まらなかった。などの理由で行われなかったのですが。スズキが第3回目のレースに戻って来たRB型を見て、その戦闘力に関心し。本田宗一郎は急行でばったりと有った鈴木俊三に「世界に出ろ」「マン島に出よう」と説いたのでした。

スズキはマン島出場宣言をし、コレダセルツインSBを改良したRT60を作り上げたのですが。スズキにはテストコースが無く、米津浜のテストコースを突貫で作るのですが。それまでの間、本田宗一郎は「良かったらうちのコースを使いなさいよ」と荒川土手の1.5㎞直線コースを貸して、ホンダの125ccと250cc、スズキの125ccが同じコースを走るのでした。

本田宗一郎は、目の前の敵に塩を送る事よりも。ずっと先を見ていたからこそ、出来た事では無いでしょうか。

ホンダとスズキはマン島では日本選手団として結成し。壮行会を開いて、マン島へ出発します。ホンダは1960年、参加2年目のマン島TTから、WGP(ワールドグランプリ。MOTOGPの前身)を全線参戦する(マン島TTもWGPの中の1戦)事を決定していて。250cc4気筒のRC160を改良したRC161はマン島では4~6位の成績を収め。4戦目の西ドイツでNo.108 田中健二郎が初めて3位の表彰台に立つ事になりました。125ccはRC143で参戦し、マン島では6位~10位。オランダとイタリアで4位と、250ccのような表彰台に上がる活躍は出来ませんでしたが。2年目という事を考えれば、どちらのクラスも上々の結果でした。

RC143 谷口尚己

一方RT60で初参戦のスズキは。ホンダの1年目のように力の差を感じて、ひたすら完走する事に徹し。15~17位でブロンズレプリカを獲得しました。

ホンダ参戦の3年目。遂に

ホンダは神社仏閣の247cc2気筒のドリームC70と125cc2気筒のベンリィC90の二本柱に加え。50ccのスーパーカブは大ヒットし、旗艦の250ccCB72はドイツで爆売れし。第二回浅間火山レースで北野元選手の活躍によって125ccのCB92も人気を得て、初参戦前に手形を落とすのに苦労したのが嘘のような最高の状態でした。

C102はセルフスターターが付いたモデル

ホンダがマン島TTへ参戦して3年目の1961年は、スズキに続いてヤマハも参戦する事となります。

MVはセミワークス体制へ・・。初戦からホンダが勝利する。

1961年は突如MVアグスタのワークスチームが、撤退すると言う発表から始まりました。

1961年の開幕戦のスペインGPでいきなり。ホンダは125ccクラスでRC143に乗るトム・フィリスが、初優勝を挙げる事となりました。

トム・フィリス RC143

伊藤史郎と高橋国光

左、高橋国光。右、伊藤史郎。

浅間火山レースで活躍した高橋国光はホンダへ。伊東史郎(ふみお、と読むがシローと呼ばれていた)はヤマハへ、とワークス入りをしていました。火山レースでは伊藤と高橋は対照的で、伊藤が自分の力でマシンをねじ伏せて豪快に走るタイプに対し。高橋はマシンをいたわってペース配分を考えながら走る、クレバーなタイプでした。高橋は家業がオートバイ屋であった為に奉行に出されたのも有って、マシンを労わる事を覚え。この頃はメカニックと一緒に整備して戦っていました。

対して伊藤は女関係も派手で、稼いだ金は遊びに使ってしまう。挙句には借金を作り、周りからは嫌われてしまうタイプでした。それでも走り出せば人を魅せる走りをする。「死を恐れないライダー」と言われていたのは、自分の弱さの裏返しだったのでは無いかと言われています。石原慎太郎は「死に向かって、いや、自分の死を追い抜いて疾走するからこそ。彼はヒロイックだった」と評しています。

銃刀法違反の逮捕によって、NHK制作の「ある人生 240キロメートルの孤独」が放送されなかった事も、何か伊藤史郎らしさを感じてしまいます。

日本車で日本人が初優勝。

第二戦の西ドイツWGPは、直線の多いホッケンハイムのコースでした。200㎞/h以上出せるストレートは、エンジンパワーが物を言い。まさに4気筒の250ccであるホンダ・RC162にはうってつけのコースとなり。クレバーな高橋国光が淡々と走り、最後にラストスパート。日本人が初めて日本車で表彰台の真ん中に立ち、君が代が流れる。周りは泣いて喜ぶ中、高橋は涙一つ流さずに完走出来たことに「ほっと」していたのでした。

表彰式の様子

ホンダは次の3戦目・フランスGPでは125ccでもトム・フィリスが2勝目を挙げ。更に250ccでは1位~3位まで表彰台をホンダが独占し、意気揚々と次戦のマン島へ乗り込むのでした。

念願のマン島TT初制覇。

本田宗一郎が出場宣言をした1954年から、初出場の1959年までは時間が掛かったものの。その3年目の1961年にホンダは参戦した125ccと250cc共に、圧巻の成績を残すのでした。250ccは1位~5位までホンダ、6位は伊東史郎がRD48に乗るヤマハ。125ccも同じく1位~5位までホンダが独占しました。

RC145とマイク・ヘイルウッド

250ccのRC162は圧巻の強さでした。MVアグスタがワークス参戦しなかったとは言え、イギリス人(スコットランド出身)のボブ・マッキンタイヤは、MVアグスタの出した1周の平均時速158㎞/hを超える160㎞/hの新記録を出して。500ccでも簡単には出せない、100mph越えの「オーバー・ザ・トン」を匂わせるスピードを見せました。125ccと250ccで1位を取ったマイク・ヘイルウッドは。明日走る350cc(ホンダは125ccと250ccの参戦のみ)よりも、250ccのRC162の方が速いと語りました

その結果を受けた本田宗一郎は『何がうれしいって、夢がかなって……』と声をつまらせた。

マン島TTの結果を受けて、不正調査が行われ。各国の委員会の前でホンダのマシンは分解されました。英国人の一人は、エンジンの中を見て。一つ一つの部品の精密さや、独創性で恐怖を覚えたと語りました。

この年のWGPは250ccはマイク・ヘイルウッドが年間チャンピオンになり。ホンダが1位~5位を独占し。125ccはホンダのトム・フィリスが年間チャンピオン、2位はMZモトラッドに奪われるものの。3位~6位まで(6位のマイク・ヘイルウッドは途中からホンダに)ホンダとなる結果を残しました。

125ccで5気筒???

その後60年代は一番上の500ccクラス以外は、ほぼホンダがメーカーチャンピオンを獲得します。MVアグスタは撤退すると言ったものの、実際はセミワークス体制でのサポートで。一番のライバルで有った、ヤマハやスズキも参戦してきた事も有って。ホンダのみならず、ヤマハやスズキもレコードを塗り替えていくような、怒涛の走りを見せてくのでした。

ヤマハとスズキは(カワサキもですがw)70年代から4ストに本腰を入れ始めた2ストメーカーで有り。第一回の浅間高原レースでも見せたように、125ccのような軽量車ではバランスの取れた2スト・2気筒が速さを見せる場面が目立つようになりました。1962年に新設された50ccクラスでは東ドイツから亡命したエルンスト・デグナーが乗る単気筒の、スズキRM62がチャンピオンを取りました。ホンダは単気筒のRC110で戦うものの力及ばず。2気筒のRC112を、まだWGPでは無かった鈴鹿サーキットのオープニングレースで有る、第1回全日本選手権ロードレースに投入し。前を走っていたデグナーが転倒したのも有っても勝利をする事が出来ました。

RM62

この時にデグナーが転倒したカーブが、デグナーカーブと呼ばれるようになりました。また所属していた東ドイツのMZモトラッドのチャンバー効果を、スズキに持ち込んだのではと言われています。実際にチャンバーを試行錯誤して、スズキのバイクの戦闘力は格段に上がったのでした。

125ccでもスズキは2気筒のRT63で、63年ではチャンピオンになり。ホンダは対抗して2バルブ・4気筒のRC146を作り。64年には4バルブ化させた2RC146で、ホンダがチャンピオンを奪還します。しかし最終戦の鈴鹿では、スズキも水冷化したRT63改Aを投入し。65年シーズンはスズキとヤマハのエンジンの後続を踏む結果となりました。

ホンダは125ccの6気筒化も検討されました、しかし余りにも1つ1つのシリンダーが小さくなりすぎる事。最高回転が16500rpmを超えるようなエンジンに何が起こるか解らない事。新規設計する開発時間も無い事。と問題が山積みだった所に。本田宗一郎が50cc2気筒だったRC112の1気筒当たり25ccを5つ使えば125ccになるとアイデアを出して直列5気筒のエンジンの開発が始まりました。

RC112

エンジンのバランスを考えれば、6や4の方がバランスを取りやすいし。爆発の不均等間隔や振動がどの程度になるのか解らないという事で、実際にやってみたらその辺の問題は大きくならず、一番苦労したのは冷却性だった。2万回転に迫った125cc・4ストロークDOHC4バルブ5気筒のRC148。1966年にはそれを改良したRC149で闘い、チャンピオンを獲得したのでした。

RC149

2万回転を超えていくようなエンジンは、現在のF1の世界でも有りませんが。1気筒当たり25ccと言うのも、今じゃとても考えられません。RC148は9段ミッション。更に小さなエンジンはパワーバンドの狭さをカバーする為に、10速を超えて行きます。RC148の改良型RC149は125ccで34馬力以上とも言われ。リッター換算すると34×8=272馬力以上と4ストでそれだけ出していた。ターボ無しでは考えられません。スズキも負けじ?と、もっと細かいエンジンを作ります・・。

250ccは6気筒に

125ccの空冷直列5気筒に比べれば、250ccの空冷6気筒は驚かないかもしれませんが。ホンダが何故そんなに多気筒かするかと言えば。戦後すぐは外国のコピーから始まった自動車産業だったので、「本田宗一郎はオリジナルの物を作らねば、本当に勝ったとは言えない」と常々言ってた事。重量に伴うトータルバランスで有利な2ストに勝つには、パワーで勝つしか無いと。実際に実現するのは大変ですが、単純な論理でした。その極致に立ったのがその後の楕円ピストンとなるのですが・・。

64年のシーズンの250ccクラスは4気筒のホンダ・RC164に乗る、ジム・レッドマンと2気筒のヤマハ・RD56に乗るフィル・リードの一騎打ちとなっていましたが。後半にはついに軽さで勝るヤマハがタイトルを決めました。そこでホンダは遂に出来たばかりの6気筒・RC165を、イタリアGPで投入しますRDに最高速で負けていた4気筒のRC164でしたが。ストレートの長いモンツァ・サーキットで、6気筒のRC165は10㎞/h速く。その初めて聞く咆哮によって、ただならぬマシンを作ったと報道陣は詰めかけてきました。

RC164はインパクトの割には、65年はヤマハに2年連続でタイトルを取られ。結果を出すのは改良された2RC164からでした。この6気筒に対抗して、ヤマハはV4のRD05スズキは水冷・スクエア4のRZ64と、相次いで新型エンジンを投入します。スズキはエンジンパワーは引けを取らなかったのですが、信頼性ではいまいちで結果を出せずにいました。スクエア4は70年代中盤のRG500(XR14)へ生きる事となるのですが。

RD05

66年のWGP最終戦にホンダはボイコットする事になりました。鈴鹿では無く富士スピードウェイで行われ。この年に四輪のレースで事故が起きた、魔の30度バンクが危ない事に加え。ホンダの本拠地から開催権を取られた事の抗議もあったのでは無いかと言われています。67年も富士で開催されましたが、ライダーにも不評だった為、魔の30度バンクは使用されませんでした

30度バンクを走るヤマハ・TD-1

ホンダは64年から4輪のF1にも参戦していて、費用も凄い掛かっていた事。66年にホンダは500ccから50ccまで、全制覇して。67年からは50ccと125ccはワークス参戦しない事になり。続くようにヤマハやスズキも撤退して4輪事業の方へ、力を入れていくようになり。そしてWGPで得た経験を、市販車にフィードバックしていくのでした。70年代、日本車の大きな飛躍が有ったのは、WGPで各社ともせめぎあって新しい技術を生み出したからでは無いでしょうか。

14段ギア???

50ccクラスは特に扱いやすさや、低速トルクを捨てて、ひたすらパワーを求めなければならなかった為。多段ミッションが使われていました。スズキは水冷3気筒・50ccのV型エンジンで有る、RP68を開発していましたが、50ccは単気筒までとルール変更になった為、お蔵入りになりました。

RP68ミッション

カワサキも50cc2気筒の16速ミッション車を開発していたと言う話も有ります。加減速はギアチェンジばかりなので、クラッチレバーを使わずに。ボタン式の点火キルスイッチを押して、シフトアップをしていたそうです。

ホンダ・CB72、ヤマハ・YDSに対しスズキは6速ミッションで対抗

ホンダCB72とヤマハYDS-1と250ccのスーパースポーツ車を出して人気を得れば。当然WGPでやり有ってるスズキも後に続き、65年にスズキ・T20を発売します。分離給油と市販車初となる6速ミッションを搭載し、初代仮面ライダーのサイクロン号にも使用されました。

T20じゃなくてT200等の諸説も

4輪進出へ

鈴鹿サーキット 開園前の航空写真

1961年5月、ホンダがマン島TTで初制覇する少し前。通産省に特振法案が示されて、成立してしまうと新規参入の制限が有ったため。ホンダは急遽360/500スポーツ、マツダはキャロル、スズキやダイハツも800ccの車両を、モーターショーに出品しました。結局は廃案になったのですが、この機会に4輪の進出をしてしまおうと。建設中の鈴鹿サーキットで本田宗一郎がスポーツ360を運転し、アピールする事となりました。そして64年の軽トラT360、スポーツ車のS500。67年のN360が生まれる事となりました。

ホンダスポーツ360 日光湯元での試走

ヤマハも64年にはトヨタ・2000GTを共同で作り。この頃には日本でも4輪のレースが盛んになっていきます。63年に鈴鹿で日本グランプリが行われ。スズキは2輪レースの経験から軽自動車クラスで、スバル360を抑えてスズライトフロンテFEAが1位と2位を取りました。

ホンダのN360は、CB450のエンジンをベースに開発しているし。スズキも二代目フロンテ(LC-10)の360cc3気筒のエンジンは2輪車の思想から来るものであり。B100の118ccシリンダーを3つ付けたような物となっています。

スズキ B100
出典https://meisha.co.jp/?p=3460 LC-10のエンジン

60年代中盤になってくると、三種の神器として。カー、クーラー、カラーテレビの3Cがキャッチコピーとなっていました。子供の好きな物として、巨人・大鵬・卵焼きと言われていたのもこの頃ですね。貨物車の延長で有った2輪車やオート三輪は、徐々に手の届くようになった軽自動車や軽トラックへと移行していきました。逆に出前や郵便配達の自転車でも事足りるようなものは、スーパーカブのような二輪車へ。そして250ccクラス以上になると、クラブマンレースのように、趣味のものとなって行ったのでした。

ホンダはF1へ参戦

1961年にホンダはWGPの250ccと125ccクラスを制覇して、当時研究所には俺たちの技術ならF1でも勝てると言う勢いが有りました。本田宗一郎も「よくわからない」とF1の情報は殆ど無かった中でしたが。62年に参戦する事を決めました。

63年には軽トラックのT360、スポーツ500を発売し。ホンダはソニーと並ぶ成長企業の代表的な存在になりました。この頃はこの人の整備した飛行機なら大丈夫と信頼されていた、関口久一氏のように。中島飛行機などでエンジン開発に携わったような、戦前からの技術と知識を持った人材の確保に力を入れていました

64年8月のドイツGPにデビューしたRA271でしたが、エンジンには2輪で培ったアイディアを盛り込んだマシンでした。4ストローク・水冷・DOHC・1495cc・V型12気筒のエンジンは、1気筒当たり125ccの最大ストローク量から考えられたものでした。そして長方形のエンジンを縦置きするのでは無く、横置きする発想そのものが二輪車の考え方そのものでした。

RA270

1.5リッターは当時のF1では一番小さいエンジンの時代で、12気筒は多すぎるという考えでした。他車は精々8気筒や6気筒で、中には4気筒も有り、そして2バルブでした。エンジンのパワーだけで言えば、220馬力とライバルを圧倒していました。その頃の市販の日本車は100㎞/h程度が最高速レベルで。本格的なレースも上記の通り63年にやっと始まった所で、純粋のレーシングカー等ほとんど無く。外車等殆ど見る事の出来なかった所に。日本グランプリに出場してきたロータス23や、ポルシェ904、ジャガーE等の丸みを帯びたデザインを見て、デザイナー達は大いに参考にしたのでした。

ロータス23
ポルシェ904

エンジンサプライヤーとして参戦するつもりだったが

ホンダでWGPを戦っていたボブ・マッキンタイヤが、他のレースで事故死してしまい。F1のレースに出場するつもりで、個人で所有していたクーパー・T53(ミニクーパーのクーパー)を、夫人から買い取り。それを参考に研究する事で、ホンダの試作車RA270が生まれました。RA270は270馬力出すのを目標に名付けられたのでした。ホンダは2輪のレース経験は有っても、まだやっと4輪車を市販したばかりでしたので。RA270のエンジンを希望するF1チームに供給し、参戦するつもりだったのですが。ロータスに本契約直前に契約解消されてしまった為、独自に参戦する事になりました。

クーパー・T53とRA271

横置きのエンジンレイアウトはミッション交換や、サスペンションのセッティングに時間がかかるなど、大変な部分も多く。ライバルよりも20馬力以上出ているエンジンは直線では速いものの。最低重量が450㎏に対して525㎏と非常に重かったのです。

1964ニュルブルクリンク(北コース)でリタイアしたロニー・バックナム
当時はジャンピングスポットも有ったニュル北コースでF1が行われていた。

初年度は3戦中2リタイア、2年目も6位がやっとでしたが。エンジンの低重心化や車体の軽量化等改良を重ね。65年10月最終戦のメキシコGPでは2000mの高地で、キャブレターのセッティングにライバルが苦しむ中。ホンダは前年に既に導入していた燃料噴射装置が有利に働いて、RA272で初優勝する事となりました。その後ホンダのV12エンジンの出現によって、F1でも多気筒化が進む事となるのでした。

初優勝したホンダ。ドライバーはリッチー・ギンサー

F2では輝かしい結果を

64年~68年のホンダF1参戦第1期目は、通算2勝と派手な結果は残せませんでしたが。2輪寄りの1000ccエンジンで有るF2の方は、エンジンのホンダを遺憾なく発揮し。ブラバムと組んだ66年シーズンはブラバム・BT18で13戦中12勝と言う輝かしい成績を残すのでした。

ブラバム・ホンダ・BT18

ヤマハ・メイトが発売。禁句となったスクーター

これまで2ストエンジン車のバイクには、オイルを燃料に混ぜる混合給油が必要で。給油には2スト用のオイルがいつも必要でしたし、一番の欠点でもあるのでした。ヤマハは64年に初めてオイルポンプ式の分離潤滑・YG1Dを発売し。他社も後に続き。サイドカバーにオイルタンクを取り付けたりして、以降はそれが当たり前となりました。

ヤマハは60年にホンダ・スーパーカブやスズキのセルペットに対して、モペットMF1を発売しました。フレーム形状による整備性が悪かったために、65年にはスーパーカブのようなアンダーボーンフレームにした、ヤマハメイトを販売しました。ヤマハは60年に、トルクコンバーターやシャフトドライブ方式を採用した、意欲的なスクーターのSC-1を販売するのですが。そのトルコンの不具合が多発して、販売不振により。スクーターは「禁句」になったのでした。

SC-1

続々と大きなエンジンの車種が発売される

外車を参考にしたメグロスタミナや丸正自動車のライラックの500cc、陸王の750ccに迫る。日本独自のモデルが60年代中後半に現れていきます。65年にはホンダ・CB450、66年にはカワサキ650W1。67年にはヤマハ・350R1カワサキA7(350cc)。こう言ったモデルは主にアメリカを意識したもので。日本ではまだまだ未舗装路が多く、大きなエンジンと車体は持て余す乗り物でした。その前はホンダ・CB72とCB77。カワサキ・A1とA7、ヤマハ・YDS3とYM1のような日本に有っていた250ccをボアアップした300ccクラスの車両を海外向けに販売していました。

ヤマハ・350R1。三億円事件で白バイ風に改造されたバイクとして有名。

しかしアメリカでは昔ハーレーは1200ccが男用、750ccが女用と言われていたように。このクラスはまだまだ中間排気量で有る事が、CB450やA7を作って日本メーカーは実感するのでした。

そこでいちばん先に動いたのはスズキで、68年3月に世界初となる500ccの2スト車。T500を発売するのです。しかし半年後のモーターショーで現れた、ホンダの化け物。CB750FOURが全てを吹き飛ばしたのでした。

価格、走り、装備など。全てにおいて化け物だった。

メイハツ→川崎航空工業→カワサキモータースへ

WGPで華々しい活躍を見せていた3社に比べれば、カワサキは遅れていました。川崎航空工業の本部は自動車を作るつもりだったらしく、2輪車には余り力を入れていませんでした。神戸製作所長の山本福三氏だけはオートバイ事業に熱意が有ったのですが。このままでは不味いと、部下に販売店にメイハツB6・B7の評価を調査に回らせた結果。「スポーツ性が強過ぎる」とユーザーは悪路走破性を求めている事が解り。メイハツから川崎航空工業へとなった後、5000台限定で広告も出さずに販売店に渡すだけで発売されたB8は、悪路に強いモデルとなり、モトクロッサーに改造される程人気を得て。B8をベースに改造したカワサキ初の市販レーサーB8Mがモトクロス大会で活躍し。川崎航空機工業の二輪事業は首の皮を繋ぎ留め、継続される事となりました。

赤タンクと呼ばれたB8M

その後。戦前から500cc超の4ストロークエンジンを作って、3輪車や4輪にも搭載されるなど。技術力を認められていた目黒製作所が、64年に経営不振となって倒産し。B8で経営を立て直した、川崎航空工業に吸収されました。そしてメグロの血統を継ぐ大型車、624cc空冷4サイクルOHV2気筒の650W1が67年に発売される事になった訳です。 

メグロの労働争議は労働者を守るもので有るにせよ、ストライキ等行き過ぎれば会社を弱体化させるもので。外部の赤い勢力と組んでしまったのが、尾を引いてしまったのでは無いでしょうか。

60年には250cc以下が中心で有ったものの、生産台数はフランスを抜いて日本が世界一になり。それまで原付は許可制で有ったのが免許制になりました。60年代は高速道路の一部開通や多摩テック、鈴鹿サーキットのように本格的なサーキットが開業し、経済成長期も手伝って。スーパーカブのような日常の足から。B8のようなモトクロッサー等、走りを楽しむような使い方も求められるようになって行きます。

W1やB8と言った名車を作った物の、カワサキはまだ3社のようにシェアを伸ばせず。60年代後半のA1やA7辺りから、カワサキらしさを発揮するのでした

バイクの歴史。CB750FOURが登場し、日本車が世界を席巻した70年代まとめ。前半

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