バイクの歴史、戦後~スーパーカブの発売(1950年代編)

スーパーカブ

戦後から、現在4大メーカーであるホンダ・ヤマハ・スズキ・カワサキは、大きく成長するのですが、どのメーカーも最初は2ストエンジン、そして125cc以下の原動機付自転車が中心でした。戦後すぐは四輪車やオート三輪よりもシンプルで、参入しやすいモータサイクルを扱うメーカーは、数えきれない程有りました。生き残ったのは結局多角経営をしていた4社ですが。そんな時期に4大メーカーよりも強かったのは、三菱やスバルが作っていた鉄スクーターシルバーピジョンと、ラビットが大きなシェアを占めていました。

次はバイクの歴史、1960年代編。ホンダはマン島TT。そして世界制覇へ。

参考書籍

戦後から4大メーカー隆盛の前に有った、鉄スクーターとオート三輪。

戦前のバイクと言えば貴族の乗り物でした。乗馬やゴルフ、狩猟と同じもので。革のゲートル、ツイードジャケット、ニッカーボッカーとまさに乗馬をする格好で、外国製の二輪車を楽しんでいたのでした。

更にこの頃の自動車と言えばトヨタが初めて純国産として作ったAA型は。3350円と当時、名古屋で一戸建てが買える程の値段だったそうです。一般人には自動車は勿論、オートバイはおろか、自転車がなんとか買えるレベルで。大衆の乗り物は自転車なのでした。

トヨダ・AA型。本格的な「日本車」第一号

戦後すぐは自動車を作るのは、GHQの管理下で生産制限がされ。許可を得た物しか作れませんでした。ガソリンも配給制で中々手に入らないので、戦時中に航空機用に研究した松根油(松の根っこから作った油)を混ぜたような、粗悪なガソリンで走らねばならないと。代わりに木炭バスが走っていて、パワーが出ない為。坂道では乗客が押す光景が見られました。燃料が手に入らないならば、自走出来る自転車の役割が非常に大きかったのです。

オールスターのMVP賞品だった自転車。
木炭を不完全燃焼させ、僅かな水素を燃料としている

戦前から軍需産業を作っていた三菱重工や中島飛行機(スバル)は解体されたのですが。残された工作機械や在庫物資を使って、自動車では無い現在は「鉄スクーター」と呼ばれる物を作りました。自動車と言えばトラックやバスの商業車が主だった時代に。高峰秀子の広告を使って、個人でも所有出来る物と言う、今までの自動車感を覆し富士産業(スバル)のラビット、中日本工業(三菱)のシルバーピジョンは高額で有ったものの。航空機を作る技術から、転用して作ったスクーターは他社の二輪車よりも信頼性が有り。ホンダ、スズキ、ヤマハが台頭しても、その2車種で争いをする程。重要な乗り物で有ったのです。ちなみにホンダもジュノオ、ヤマハSC-1、を作った(カワサキもw)のですが。歯が立ちませんでした。

ラビットはまんまウサギ。試作車は飛行機の車輪を使ったそうな。
STIにもラビットマークが使われている

鉄スクーターは、海外では贅沢な乗り物として扱われていたため。GHQには生産台数の制限をされたものの。日本での使われ方はリヤカーやサイドカーを付けた物も有り。人を運ぶ足だけで無く、荷物を運ぶ商業車としての役割も大きかったのです。

同じように商業車として使われたのはオート三輪で。二輪車のエンジンの後ろにリヤカーを付けたような、ほぼバイクと呼べるシンプルなものから始まったオート三輪は。四輪の自動車やトラックよりも安価に作れた事に加え。小回りが利くので狭い道も走れ、悪路走破性が高く。雨が降ればぐちゃぐちゃになる、晴れれば凸凹だらけ、未舗装路ばかりだった日本の道路事情に有った物で。日本のダイハツ工業や東洋工業(マツダ)、三菱、川崎航空機、三井精機と軍需を担っていた「日の丸産業」がオート三輪を作っていたのでした。

マツダDA型三輪トラック
マツダ・T2000 ウィキペディアより
水島 TM型 なんと単気筒で886cc
過積載が普通だった。愛知機械工業 ヂャイアント 水冷水平対向・4気筒エンジン

その二輪車に近かったオート三輪は、貨物としての役割を求める余り大型化し。バーハンドルでは重くて舵を切れなくなってきた為。バーハンドルでエンジンの上にまたがるように座っていた、2輪車に屋根を付け、フロントガラスが有るようなドアの無い車両から。複雑な機構の丸ハンドルに独立キャビン、ドア付き3人乗りと。四輪トラックのような装備になって、価格差が出なくなってきました

ミゼットDKA型。2ストの249cc

軽自動車のスバルと三菱の「360」が出て。大衆車となるあたりから、オート三輪は消えていき。また鉄スクーターも同じように自社製品の軽自動車や、安価で性能や信頼性の高いホンダ・スーパーカブや。ヤマハ、スズキのバイクへと消費者が移って行き。免許制度の改正も手伝って、戦後すぐ活躍した鉄スクーターとオート三輪は同じように消えていくのでした。

1963 | スズライトフロンテFEA スバル360に対抗して作った鈴木自動車

この頃の免許制度は軽自動二輪、側車付自動二輪、自動二輪、原付、軽免許、第一、二種原付、小型四輪自動車、自動三輪、普通車、牽引etc・・と。訳わからない程種別が有り二輪車の免許を持ってれば軽自動車を乗れる等、筆者も調べていますが。当時を知る人じゃないと訳が分からないレベルです。この時代に普通車の免許を取ってしまえば、二輪車も付帯してきて。現在の大型二輪も乗れる時代だったのです。

戦前の「日の丸産業」から続く大企業である、スバルや三菱は2輪事業には進まず4輪車へ。代わりにヤマハ(楽器)とスズキ(織機)のように、違うものを作っていた会社が2輪車へ進む事となります。その中でもホンダとソニーは戦後から躍進する、異質なメーカーとなりました。

戦後から群雄割拠の50年代。

日本のモータサイクルは、戦後から50年代は非常に沢山のメーカーがしのぎを削っていました。特に遠州地方(静岡県西部)は53年(昭和28年)30社を超すメーカーが有り。日本のモータサイクルの中心で有りました。その中で現在残ったのはホンダ、スズキ、ヤマハの3社だけになるのでした。

有名な所(遠州地方でない)は陸王目黒製作所(のちのカワサキと合併)。富士工業(現スバル)中日本工業(三菱)井関農機ブリヂストン、と言った会社も、二輪車を売っていました。

トラクターのヰセキ

宮田製作所(モリタ宮田工業)のアサヒ、丸正自動車製造のライラック、ロケット商会のクインロケット、みづほ自動車製作所のキャブトン等も二輪車として有名な所でしょうか。

長嶋茂雄が広告塔に

スズキとヤマハは戦前から有った会社で、経営体制を立て直す為の二輪車事業進出でしたが。ホンダだけは戦後から自動車業(二輪も四輪も自動車)1本でのし上がっていったのでした。

本田技研の成り立ち

本田技研は浜松で創業者の本田宗一郎氏が、使い道も無くて放置してあった旧陸軍の無線機用の発電エンジンを。自転車に取り付けたら面白いんじゃないかと、取り付ける工夫をした湯たんぽに松根油を入れてエンジンを動かす。それは「原動機付自転車」の始まりで、何処で誰が最初に作ったのかは分かりませんが、この時期にあちこちで見られるものでした。

「湯たんぽ」のポンポン(音がぽんぽん言うからそう呼ばれていた)
ホンダA型

バイシクル=自転車、バイシクル+モーターで略してバイクオート・バイシクルの略がオートバイで。バイク、オートバイとは原動機付自転車をさしていた事から始まっています。

そして49年(昭和24年)ホンダ初のモーターサイクルとなったホンダCは2ストで有りました。当初はまだ評価が低く、町工場に毛が生えた位に見られて。ヤミ屋の乗り物だの、本田の社員の嫁には行くなだの、と言われていたそうです。エンジンは自社製でも、フレーム等は外注で作っていて。フレームを作ってる会社自身が、二輪車を出していたりしたので。納期は安定したものではありませんし。ホンダCが売れれば嫌がらせされる事も有ったそうです。

次は自社製の本格的な2輪車を作らねばとBMW等の欧米車を解体して研究し、産まれたのがドリームDでした。完成祝賀会で社員が夢のようだと言った所から、ドリームの名がつけられました。その頃の財政は、稼いだお金は直ぐに設備投資に使ってしまう税金も払えないので、税務署にエンジンを差し押さえられていた。なんて話も有ります。その頃のホンダは技術屋で有る宗一郎氏の情熱ばかりが先走り販売や営業体制は全く欠けていたように見えます。「本田宗一郎は頭がおかしくなったのではないか?」と周りに言われる程でしたが。自転車に取り付けるエンジンのカブFを。段ボールで販売する事を考えた藤沢武夫氏が、本田技研の「大蔵省」役としてやってきて。資本金が6千万であるのに対して、15億の投資をすると言う大胆な投資をして。本田宗一郎と共にホンダを大きく成長させる結果となりました。

最悪はホンダが潰れても、従業員と工作機械は生き残り続ける。それが日本の工業の発展に繋がると考えての決断でした。藤沢氏によると、「本田は弱音を吐いたり、決してねだったりしなかった。だから私がカネを出して買ったものは、無駄になった事は無い。本田への信頼が無ければ、経理的に余裕が有っても、この大冒険には踏み切れなかった。」と語っています。

昭和30年に建てられた、葵工場。出典https://bike-furusato.net/history/honda/

「良品に国境無し。いくら関税が有っても、良い輸入品にはどんどん入ってくる。それに勝つためには輸入品に勝る、良い物を作るしかない。アイデアを幾ら出しても、最後には設備が物を言う。こんな事は2度とやってはならないが、踏み切らなければ今の本田技研は無かった。」と本田宗一郎は後に語っています。

2万6千円で有った、カブF
後ろ側に取り付けられるから、オイルで体が汚れなかった
ホンダC型

1952年には2ストの音が気に入らないという事で、宗一郎氏が146cc・空冷4ストロークOHVのドリームEを制作しました。この時代はアルコールや松根油を、10%混ぜなければならない粗悪なガソリンで。更に混合用のオイルも品質が良くなく。2ストエンジンは飛び散る油汚れや煙、マフラーのつまりなど、ユーザーにとっては問題だらけだったのですが。4ストよりも構造が簡単で、パワーを稼ぎやすい利点が有りました。

ドリームEはこのクラスで、一つ抜け出すパワーを発揮し。当時厳しかった箱根峠を難なく乗り切る実力を見せつけました。この時は台風の中のテストで、運転していた河島喜好が後のマン島TTでの監督となるのでした。

また同年には大ヒットとなる2ストエンジンである、カブFが発売されましたが。ホンダの2スト市販車としては最後(しばらくは)で。宗一郎氏が本来はやりたかったで有ろう、4ストエンジン一筋になり。4ストのホンダになって行った訳です。2ストのエンジンの問題点を解決するより、4ストエンジンを研究する方針を取りました。

カブF発売の時期(昭和27年1952年)にサンフランシスコ条約で主権が回復すると共に。原油の輸入が始まり、ガソリンの配給制も終わり。これからと言う時期に、90cc以下の原付が(無免許許可制)新設されて。カブAのように軽車両扱いされた「原動機付自転車」は、90ccの二輪車、ベンリィJと同じ区分となって。価格以外が有利で無くなった為、「自転車とエンジンのハーモニー?」で有るカブFに代わる乗り物を作る必要性が出てきたのです。ホンダとしても車体で有る自転車に、半分以上持っていかれるのは不本意だったのでは。カブFは50ccのエンジンを免許改正に合わせて、F2として58.1ccにマイナーチェンジしましたが。販売には陰りが見えてきていました。戦後庶民の足として一番重要だった自転車が、ここで生まれ変わろうとしていたのです。

ベンリィJ 12万5千円

この頃の二輪車の免許と言えば試験場がそもそも少なく、試験車を持ち込む試験も多く行われました。最初は陸王の750ccハンドチェンジ車から、ホンダ・ドリームC76、305ccと年々簡単にはなっていたものの。合格率は30%程でした。

ホンダはこの時期に、ドリームEのOHVエンジンを流用して、ホンダ・ジュノオと言うスクーターを作ります。雨に少しくらい降られてもいいように、大型の風防と。日本では初めてとなるポリエステル樹脂を大量に使い、綺麗な曲線を出しつつ軽量化を図りました。しかし頑丈にしたあまり、同じエンジンのドリームEが97㎏に対して、ジュノオは170㎏となり。更にデザイン優先でエンジンの通気口が殆ど無かった為、オーバーヒートを起こしてしまう。「カッコだけのジュノオ」「重くて鈍いジュノオ」と評価されてしまいました。この失敗はスーパーカブへと活かされる事となるのですが。販売不振が重なってしまう事となります。

ホンダ・ジュノオ 何度も改良されたが・・。

この時期にホンダはブラジルのサンパウロ400周年記念として、日本にも参加してほしいと要請が有ったのでドリームEの改造車で参加する事に。レースの情報も全く無いので、草レース程度だと思っていた所、1周6㎞の本格的なコースでした。2速しか無い自転車の延長に有るドリームEに対して、他のマシンはマン島も走る本格的なバリバリのレーサーで。参加した大村選手は、只々驚くばかり。そして慎重に完走する走りに徹し13位の成績になりました。その後に出場宣言をした世界最高峰レース、マン島TTを視察に行った本田宗一郎はレベルの高さに衝撃を受ける事となりました。なんせホンダの主力で有った220ccのドリームEは8.5馬力同じクラスの西ドイツNSUは36馬力と4倍の差有りました

ジュノオの販売不振と、ドリームEのキャブレター不調による「リコール」。カブFのライバルとなる、スズキの補助エンジンの登場。そして設備投資による借金で危機的な状況に追い込まれました。しかしホンダは従業員が、「このままでは会社が潰れてしまうと」一丸となって対応しました。そんな不安の中で本田宗一郎の外遊と、「檄文」を飛ばし。融資を行っていたメインバンクへ、安心させるアピールともなったのでした。

ドリームE ホンダの公式より
まだまだノーヘルで良い時代でした。

この頃には労働組合は有ったのですが、外部から来た支援団体を入れなかった目黒製作所が赤い勢力と組んで労働争議で弱ったのと違う、自主的に健全な労組へなったのは。本田宗一郎の人柄も有ったのでは無いでしょうか。結成に当たって、「オヤジが社員をひっぱたく事の中止を要求する」という一項が有ったそうです。

スズキは織機メーカーから自動車へ

織機は海外では100年たっても現役だった物も有ったそうな。

明治42年浜松に、鈴木式織機製作所として誕生したスズキは。1930年代には東南アジアで「スズキ」は織機を意味する程、シェアを伸ばしていました。しかしイギリス製の織機が40年たっても使われている事を知りました。

戦前には軽自動車や二輪車の試作をする等、トヨタと同様に織機だけでなく自動車産業への進出を考えていました。スズキは戦後に工場の受けたダメージで本社工場を閉鎖したり、デフレと労働争議によって経営難に陥っていました。後に二代目の社長になる鈴木俊三(しゅんぞう)常務は、釣りが好きで天竜川へ自転車でよく出かけていました。既に「ホンダのエンジンを載せた自転車」は好評を得ていて、乗って見るとクラッチが完全に切れなかったり、今度はエンジンを止めるとペダルが重くなってしまうと、欠点が有りました。ならば改良してエンジンを使わない時は、同じように自転車として使える物を作れば良いのでは無いかと考えました。織機は需要に限界が見えていたし、織機を製造する工作機が自動車制作に転用出来るのも大きな利点で有りました。ならばと会社を立て直す為に、これから需要の見込める自動車産業に、スズキの触手がワキワキと伸びた瞬間でした。

創業時の写真

52年には試作エンジンの2スト単気筒・30ccのアトム号を作り。0.2馬力と非力だった為販売はしなかったものの。36ccに改造し、0.7馬力まで上げたパワーフリー号を作り上げました。パワーフリー号は上述の動力が完全に切れないエンジンを改良して、ダブルスプロケット方式にし。発売後はヒットを飛ばしましたが。その頃の社内にはモーターサイクル事業に進むことに反対の声も有りました。ホンダを筆頭に沢山のライバルが遠州地方にはひしめいていて、ならばと俊三氏は販売戦略を練りました。そして浜松の凧揚げ祭りのパレードに、パワーフリー号を運転し宣伝する事に。

凧あげ祭りでの宣伝
パワーフリー号。

免許改正(二輪車は90cc以下2ストは60ccが無免許許可制)によって36ccのパワーフリー号から60ccに改良したダイヤモンドフリー号が月産4000台と、カブFと並ぶ人気を得て。弾みをつけた54年には鈴木式織機から、鈴木自動車工業へ社名を変更し。55年には50年から試作を重ねていた、日本初の量産軽4輪車のスズライトを発売する事となります。

スズライトSS スズキのホームページより転載

本田技研、ヤマハ発動機、東京発動機(トーハツ)、メイハツ(その後のカワサキ)のようにエンジンを意識した社名にせずに。豊田自動織機から分離した豊田自動車と同じように鈴木自動車にしたのは。社長の鈴木道雄が自動車生産に、強いこだわりを持っていたからで。この頃の貨物的な使われ方もしている2輪車よりも、将来は4輪車が本命となるのでは無いかと踏んでの事でした。

当時社内で反対も多かった(ヤマハも同様)自動車産業への進出に。織機からいきなり自動車生産では難しかった事を、パワーフリーやコレダのように原付の成功を挟んだ事で、転身しやすくなったのだと思います。

ヤマハの歴史は、レースの歴史。

オルガンの修理から始まった、日本楽器製造(現ヤマハ)は。スズキと同じように、主力商品のピアノやオルガン等の楽器だけでなく、次の商品を模索していました。戦時中には飛行機のプロペラを作っていて、その工作機械が工場には眠っていました。プロペラの変節装置にオートバイのエンジンが似ているという事で、メカ好きだった当時技術部長の高井氏がやってみようという事になり。試作品を作る事からスタートしました。

ヤマハコミニュケーションプラザに有ったプロペラ

しかし、既にホンダやスズキは自転車の補助用エンジンでは成功を納めていたし。遅れて新規参入をして同じことをやっても勝てる訳が無い。ならばとヨーロッパの高級車をコピーする事から始めました。そして西ドイツのDKW(現MZモトラッド)・RT125をコピーしつつも、デザインや性能は上を行く車両を作ろうと、ギアを3段から4段にしたり。シリンダーの精度を向上させ。54年には試作1号車が完成し、YA1と名付けられ。楽器を作っていたヤマハらしい明治のチョコレートパッケージ色のカラーで。第一回浅間高原レースで、晩秋の高原を飛ぶように走る所を見て、赤とんぼと呼ばれました。

ヤマハの一号機だから、Y。Aが125cc。

燃料タンクは高級ピアノを仕上げる熟練工による塗装で、エンブレムは七宝焼(しっぽうやき)と手の込んだものでした。

七宝焼き。日本の壺は飾り物としてヨーロッパで人気だった。中国製はト〇レに使われたとか・・。

しかし発売当初は販売店に売り込みに行っても、スズキやホンダと言った先行社が契約を済ませていて、入り込む余地が無い。楽器屋が作った二輪車はデザインや走りがいくら良くても、まともに取り合って貰えず。口でいくら説明しても、「楽器屋が作ったバイクは、ドレミファとでも鳴るのか」と理解してもらえませんでした。ならばレースで解りやすい結果を出せば、車両の良さを知って貰えるのでは無いかと。翌年に群馬県・北軽井沢でマン島TTを手本にした、第一回浅間高原レースが行われるという事で。そこで優勝する事を目標に定めました。

ホンダは54年にはブラジルで、日本車としては初の国際レースに参加し、惨敗を喫しました。その結果世界一になると闘志が燃え上がり。世界最高レースのマン島TTに出ると、檄文を飛ばしていました。浅間のレースで、ホンダとヤマハは相まみえる事に。

レース仕様のYA1

55年。第一回浅間高原レースの結果は、当時の日本の輪車市場で中心だった125ccクラスは。市販されたばかりのヤマハYA1が、1位から4位まで独占すると言う最高の結果を残し。YA1を宣伝する最高の形で、販売台数を伸ばす事になりました。そして日本楽器からヤマハ発動機を分離、独立させる弾みとなりました。その後58年には2ストローク並列二気筒・250ccのYD1。YA1の後継機YA2と発売させ。50年代末期にヤマハ発動機は、ホンダとスズキに次ぐ生産台数を上げて。知名度は確固たるものとなりました。

第一回浅間高原レースでは、未舗装で有った二級国道(国道146号)を一部走るものの。ジャンピングスポットも有り、火山灰や溶岩がゴロゴロした町村道の危険な1周19.2キロの酷道でした。ホンダはOHVからOHCへ転換した250cc・ドリームSAを出場させました350ccクラスと500ccクラスでは1位となる結果を残し。250ccクラスでは2位と健闘したものの。当時の日本にはメインで有った、肝心の125ccではヤマハとスズキに惨敗し。悪路では軽さが物を言う。小排気量では軽量でパワーを稼ぎやすい2ストのヤマハ・YA1とスズキ・コレダSVに、4ストのホンダ・ベンリィJCZでは勝てっこないと評価されてしまう。

ローソンの敷地内に有りますw
コース図
ホンダ・ベンリィ・JC
ベンリィ・JCZ

日本にはまだ需要の少なかった350cc超のクラスだけでは、ホンダは勝ったと言えず。更に第2回目の浅間レースでも125ccクラスでヤマハにホンダは勝てず。125cc2気筒車と、同時にマン島TTでも戦える、本格的なロードレーサーを開発する事へ情熱を注いでいきます。軽量級には2ストに勝てなかったものの、350cc超では最先端のOHCを採用した、4ストの単気筒のドリームSAが走り。1955年発売のトヨペット・クラウンはOHVダットサン110型はまだサイドバルブと旧式エンジンでしたが。ヤマハは創業2年目の1957年に2スト並列2気筒のYD-1を作っていました。ホンダはヤマハに対抗して、DOHCのエンジンと。4ストよりも倍数爆発する2ストエンジンに対抗するには、4気筒も作らねばならないと考えていました。2輪エンジンは4輪よりも既に先を行っていましたが。スズキは既に軽自動車を作っていた4輪車メーカーでも有り。後のホンダ四輪参入も絡んだ事で。4輪車のエンジンも含めた、国際レベルの高性能エンジン戦争が、浅間のレースから始まったのでした。

ダットサン110型

ホンダとヤマハのライバル関係はこの頃から始まりました。ヤマハは練習中から要所にトランシーバーを持った部隊を置いて、他チームを偵察して作戦を練りました。ベースキャンプには146号沿いの養狐園に張り、他のチームを見るには絶好の場所にしました。ヤマハの練習は他チームが寝ている夜明けに行われ。修理部品の報告には電話では偽の情報で、速達で本当の報告をしたり、ドイツ語の暗号にするなど情報戦をしました。

後にヤマハワークスライダーとなる伊東史郎(ふみお)が250ccで優勝する。

丸正自動車のライラックに乗る。全く無名の16歳の伊東史郎(ふみお)が、ホンダワークスを抑えて勝利を飾った250ccですが。第二京浜を猛スピードで走ってるのを見たライラック代理店の店長から、推薦されて出場したものでした。翌年のクラブマン(アマチュア)レースとなった浅間のレースで。日本人初のWGP優勝をした高橋国光と共に10代天才ライダーと称され高橋はホンダ伊東はヤマハへ行き、舞台を世界へ移し争うのでした。

市販車の域を出ない日本のレース車両

この頃の日本メーカーがレースに出場していた車両は、レース用に開発したレース専用のレーサーでは無く。あくまでも市販車をレース用に改造したものでした。YA1にしてもマフラーの長さを変えたり、ポートの形状を変えて。5馬力を10馬力にアップさせたものでした。ホンダが初参戦した時は既に舗装路だったマン島TTでは。ヨーロッパ各社のレーサーマシンに、浅間のレースのように日本の未舗装路ばかりだった路面に合わせた、市販車を改造したもので戦うのは、結果は火を見るよりも明らかで。54年に出した檄文には来年に出場すると宣言したものの、初参戦したのは59年で。58年にホンダは荒川河川敷に舗装路のテストコースを作り。マン島TT出場のプロジェクトは試行錯誤を繰り返して、戦えるマシンを作るのに5年近くかかった結果になりました。

ホンダ・RC142

ヤマハはレースで名を上げる手法を取った事で、ホンダやスズキとは何度もやりあう事となり。ヤマハの歴史はレースの歴史となるのでした。

58年にスーパーカブが発売。

ホンダのレース活動が本格的になる中。1万円札が発行され、東京タワーが完成した1958年に。ホンダの屋台骨となる、スーパーカブC100が発売されました。CUBの意味は英語で猛獣の子供。小さいながらもパワフルな走りをイメージして名付けられました。コンセプトは、誰もが気軽に扱える事。手の届く値段で有る事。そば屋が片手運転出来る事が開発の中心に置かれました。スーパーカブはカブFのような「自転車+エンジン」のモペットから、法規上有利で無くなったペダルを排除し。自転車から脱却するモデルとなりました。

エンジンは50c空冷のOHVで4.3馬力。ベンリィで既に似たようなエンジンを作っていたので、エンジン関係は自動遠心クラッチの開発が中心でした。道路事情を踏まえ。泥や雨を防ぐレッグシールドはプラスチックで作りました。樹脂に対して不明な事が多く、開発には時間を要しました。乗り降りしやすいアンダボーンのフレーム。それに伴う低重心のエンジンや、シートの下の中心部に配置された燃料タンクにより。非常に取り回しの良い。スーパーカブ号は、今日も続くまさに使い勝手の良い車両になりました。

これまでに無い独創的な出来栄えに、藤沢武夫専務は月産3万台は行けると豪語したそうです。当初ホンダにはその3万台を作る設備は無く3000台の間違いではと誰もが思ったそうですが。発売後の月産1万5千台という売れ行きを見て、浜松と埼玉の工場では生産が間に合わず。60年には鈴鹿に60億円かけて無窓完全空調の工場を作り、ついには月産6万台を達成し。スーパーカブは北米やヨーロッパのみならず、東南アジアやアフリカまで輸出され。世界中で大ヒットを飛ばしました

スズキはモペッドに忠実すきだ

1958 | スズモペットSM1

スーパーカブの発売3か月前に、スズキは上記のペダル付き原付スズモペットSM1を発売します。2ストで2馬力のスズモペットに対して、スーパーカブは4.3馬力。価格はカブが5.5万円、モペットが4.5万円と安かったものの。結果はスーパーカブに押されて値段を3.9万円に下げるものの。ヨーロッパの税金に優遇措置があるのと違い。ホンダは「日本のモペッドを作れ」だったのに対して、スズキは忠実に「ヨーロッパのモペッド」を作ってしまった為の敗北でした。

本田宗一郎がマン島視察に行ったように、鈴木俊三も56年にヨーロッパの視察に行き。そこで見つけたのがモペッドでした。スズキは第一回・浅間高原レースでヤマハに惨敗しましたが、負けた理由は練習量でした。ヤマハは数千万円の費用をかけて臨んだのに対し、スズキは実用車にお金をかけたいと言う考えでした。スズキは第二回目の浅間火山レースに出場しませんでした。しかしそのレースが非常に盛り上がりを見せた為、スズキは3回目の浅間火山レースで復帰をします。その後、急行列車で鈴木俊三と本田宗一郎は顔を合わせた時に、「世界に出ろ」と宗一郎に説かれたのでした。

スズキは3回目の浅間火山レースの1か月後に、伊勢湾台風で浜松地区の工場が潰れてしまい。それを機に4輪の大きな工場を作る事となりました。そして当時の軽自動車で規格で有った、360ccスズライトキャリイFBには。二輪車のエンジンをベースに設計されました。そこからジムニーや、セルボ、アルトと言った70年代の自動車にも続いて行く事となりました。

押しつぶされたスズライトTL。

一方カワサキは・・。

明治に造船から始まった川崎重工は、蒸気機関車や船舶。戦時中は三大重工の三菱、石川島播磨と同じように。軍艦や戦闘機を作っていました。勝鬨橋や永代橋の橋桁。自動車としては六甲号を作り、その設備が後のいすゞ自動車へと渡っています。また満州鉄道「あじあ号」の牽引車を作りました。

勝鬨橋 船が通行できるように架道橋となっていた。

カワサキの航空機部門は大日本機械工業(現ハスクバーナやコマツと吸収合併)に、60ccの自転車取付用エンジン。KB-1号のエンジンを納めていましたが。大日本機械が生産を辞めた為、同社の技術者達が中心となって。明石の発動機という事でカワサキモータースの前身となる明発工業を設立しました。54年発売の本格的なバイクとなったメイハツ125は。「ピストンリングを変えずとも1万㎞走れる耐久性」と謳っている程自信が有ったのですが。広告で販売店を募るやり方で、当初は知名度も低く。大株主となっていた川崎航空機工業の経営陣は、二輪事業は撤退する(四輪の計画が有った)と検討する有様でした。壊れにくいと製品の評価は高かったのですが。スーパーカブが10万台売れているのに対して、カワサキは数千台とシェアは非常に低く。この頃からマーケティングは上手くない、「カワサキ」なのでした。販売網が無いカワサキが取った行動は、当時老舗だった目黒製作所のと業務提携でした。

KB-1
KZ360 この4ストエンジンが後のZ1の開発へ活かされる事に

続きはバイクの歴史、1960年代編。ホンダはマン島TT。そして世界制覇へ。

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