欲張りだった初代となるCB92、化け物だったCB750FOUR、正統進化のCB-F、色々あった400ccのCB400FOURとCB400T、命運を分けた派生モデルのCBX、レプリカの時代はCBRやV型エンジンのVF(R)シリーズとなってラインナップから消えたものの。89年にCB-1で復活すると、BIG-1プロジェクトによって現在も30年続いている、スーパーフォアが戻ってきました。
スーパーカブから発展したようなCB90や、CB125Sのようにおとなしいモデルから。CB1100Rのようにレーサーと言える物までピンキリのように有りますし。レプリカ全盛の時代はCB750FやCBX400Fは古臭いとされて、安く売られていたり。性能面で馬鹿にされた時代も有ります。
それでも一つだけ言える事は、CBの名はホンダを常に代表していた車種に付けられ。つまり日本車の中心に居続けているのは間違いないと思います。
ホンダ・CBとは
CBを名付けた理由はCB750FOURの、開発総責任者である原田義郎氏によると。「C」YCLE FOR CLU「B」 MAN RACERから取ったと語っています。クラブ マンとはそのまんま同好会に所属するような人達の意味で。プロでは無いアマチュアレーサーのようなイメージを取って貰えれば解るかと思います。
現在の感覚だとCB750はナナハン、CB1300SFはセンサンビャクと。大体どのメーカーも数字はエンジンの大きさを表していて解りやすいのですが。初代CBはホンダ・ベンリィCB92(CB90)。その次はホンダ・ドリームCB72では、ピンと来ないと思います。
草創期のホンダは、A型、B型、C型と。そのままアルファベット順に名前を付けて、FやGは汎用エンジン。E型は2Eや3E、キャブレターの問題が有り、経営危機の時期に当たってしまった4Eと。改良型は前に数字を加えていました。
アルファベットはすぐに終わってしまったので、今度は数字の10、20として。その改良型は11や21となり。更に汎用エンジンと区別をつける為に、CycleのCを頭に付けてC70となり。C100がスーバーカブとなったのです。それにセルモーターを付けた改良型がC102となった訳です。つまりエンジンの大きさでは無く、ただの順番だったのです。
くれぐれもコミケのC102と間違えないでくださいw
ホンダ・CBは1959年発売の初代CB92から、現在(2024年1月)のCB1300SFまで続いています。
80年代、レーサレプリカの時代は直四に代わってV4エンジンに行こうとした時期や。水冷のCBRが出て、CB-○○○が途切れた時代は有りましたが。80年代末にはCB-1で復活し。その後は速く走る事を突き詰めた本格的なレーサーのCBRと別れるように、CBは公道向けのホンダのフラッグシップの位置に現在も有り続けていると思います。
ドリームとベンリィの違い
ドリームとベンリィと名前が付く違いは、1960年以降、ベンリイ:50cc – 150ccクラス。
ドリーム:250ccクラス以上。と区別がつくようになったのですが。
それ以前は
50ccクラス:カブ
51cc – 125ccクラス:ベンリイ
126cc – 200ccクラス:ホンダ
201cc以上:ドリーム
と更にめんどくさかったのです。
150cc以下がベンリィ、大きいのがドリームと区別して貰えば解りやすいかと思います。
ちなみにドリームはホンダのD型を作った時に、初めて自社製品を作って「夢のようだ」と語った所から始まっています。
ホンダCB450やカワサキ・650W1が出たあたりから
60年代中盤に入ってから、段々とエンジンの排気量を表すような数字が入ってきます。60年頃まではそもそもが250ccを超えるモデルは、少なかったというのも有ります。昔の軽自動車規格である360cc以下までの簡単な軽免許が16歳で取れた事と、250cc以下の二輪車(=軽自動車)が乗れたと言うのも大きい要素で有ったと思います。ちなみに原付は14歳から乗れた時代も。
60年代後半にかけてスズキのT500のように、メーカーの旗艦車を誇るように。大きなエンジンだと言うのを、アピールするようになったのもあると思います。
ホンダの気合を感じれる。ドリームCB72 スーパースポーツ
1960年(昭和35年)11月に発売されたCB72は。神社仏閣スタイルと呼ばれた、ドリーム・C70から発展したモデルです。
58年発売のドリーム・C70は、250ccクラスの2気筒OHCエンジンで、既に世界で類を見ない日本車独自のレイアウトとなっていました。それをツインキャブ、圧縮比アップと20馬力から24馬力へとアップさせ。フレームにはマン島やWGPに出場していた、RC142のパイプバックボーンフレーム(エンジンもフレームの一部と見なすレイアウト、例CBX1000、GPZ900R、ホークⅡ等)とテレスコピック式フォークと。
カウルこそない物の、レーサーレプリカと呼んで良いような近い物で有りました。
CB92の存在
CB72の前には初代CBとなる、ベンリィ・CB92スーパースポーツと。排気量を150ccに拡大した、CB95スーパースポーツが1959年に発売しました。その名の通り、レースを意識したスポーツモデルで。同年に125ccでマン島TTに初出場した、RC142と同じようなバッグボーンフレームを持ち。CB92はマン島TTにも持ち込まれて、練習走行用に使われました。
またY部品と呼ばれるレーシングキットが用意されていました。
CBの名前に込められた意味は
CB92を見れば「スポーツ車で有りながら、ツーリング、ドラッグ、ロード、ダート、スクランブラータイプのパーツも用意、レース出場も出来るマシンながら公道も走れる」と欲張ったテーマでした。Y部品はその種類を選べるように、ハンドルやマフラー、シリンダーと沢山のパーツが用意されていました。
大卒初任給が1万円くらいだった1959年に出たCB92は15.5万円でしたので。250cc以下の二輪車は区分上は軽自動車(360cc規格だった四輪車も軽自動車、昔は車検無しだった)で車検が要らなかったとは言え。まだまだこういった趣味性の高い二輪車に乗るのは、敷居が高かったので、それらを満たす考えが生まれたのでしょう。
しかしCB92とCB95は125ccの「レーサー」と言う最高出力を出す必要が有った特徴から、5000rpm以下はトルクが薄くて誰でも乗れるマシンでは無く。公道では余り見る事が出来なかったのです。1958年発売のスーパーカブにはウインカーが付いているのに対して、CB92やCB72には付いていない所からも気合の入れようが解るのでは無いでしょうか。
当然こういう車両を公道で走るには、今では見られなくなりましたが。教習所で教わった手信号が必要になりますw
クランクが二種類有ったCB72
ホンダのCB92に対する力の入れようからも解るように、二代目CBとなるCB72も。1959年に40台限定で売られた、250cc市販レーサーのCR71と同様の24馬力を出し。「トップギアで70㎞/h以下では走れません」とカタログに記載されたり。高回転よりの180度クランクと、中低速よりの360度クランクと二種類用意されていました。
CB72はスクランブラータイプのCL72、アップハンドルのCBM72、実用車のCM72のバリエーションが発売され。この後しばらくはブームが続くのですが。CB72のライバルとなっていた、ヤマハの2スト2気筒車である250ccYDS-1のモデルチェンジ版、YDS-3が1964年(昭和39年)に発売され。1965年にはスズキもコレダ250T20と、2ストの弱点で有った、ガソリンにオイルを混ぜて使う混合給油方式から。分離給油方式へと発展した事で、CB72は巻き返しに合うのでした。
WGPでも4ストで闘うホンダに対して、2ストで闘うヤマハとスズキが立ちはだかっていたように。市販車でも小さいエンジンでは、軽くてパワーを出しやすい2ストがやはりコストやスペックでは有利なのでした。
主に海外向けとして、305ccボアアップモデルのCB77も発売されました。北米ではCB72はホーク、CB77はスーパーホークと呼ばれ。その通り70年代後半のホークシリーズへ、68年発売のCB250やCB350を挟んで受け継がれていきました。
CB92は1964年のベンリィ・CB125(CB93)へ、CB95は64年のベンリィ・CB160へ受け継がれました。
打倒トライアンフ。ホンダ・ドリームCB450
CB450を開発した結果。市販車に求められるのは、高回転でパワーを稼ぐピーキーなエンジンよりも。北米や欧州では更なる大きな車体と、大きなエンジンが必要な事が解ったモデルとなりました。
当時の日本人の体格では、CB72やヤマハ・YDS、スズキコレダT10の250ccクラスで充分で在り。まだ国道にも未舗装路が残り。65年に名神高速道路がやっと全線開通したばかりの道路事情では、305ccのCB77やヤマハ・YM1、更にメグロの2気筒500ccは持て余す車両。車検も必要で価格的にも重いバイクだったのです。
しかしアメリカやヨーロッパでは、1200ccのハーレーや650ccのトライアンフを見ても。このクラスは中間排気量で有ったし、サイズも中間で有ったのです。
それを実感するのは当時一番大きなエンジンだった、CB77をアメリカのハイウェイで走らせると、フルスロットルで走行しても全ての車に抜かれてしまう。60年代はアメ車の全盛期で、フォードやシボレーの5リッターを超えるようなV8・OHVエンジン車。燃費も10km/ℓなんて、とても行かない大きな車両が走っていたのです。日本では1962年に日本初の全舗装で有る本格的な高速サーキット、鈴鹿サーキットが開設され。1963年に初めて名神高速道路が開通するかどうかの時期で、全く解らない感覚だったのです。
ホンダはエンジンの耐久性には自信を持ったものの。高速道路では更なる大きな車両が必要なことを、痛感する事となりました。
ホンダは1960年、本格的にWGPに参戦してから、CB450の開発が始まる前には既に、一番上の500ccと出来たばかりの50ccクラス以外。350、250、125ccクラスはワールドチャンピオンを獲得していました。
61年には250cc、125ccクラスの2つしか参戦していませんでしたが、250ccクラスのDOHC4バルブ4気筒車であるRC162で350ccよりも速いタイムを出していたので。ホンダの技術力ならば1つ小さいクラスのエンジンでも戦える。その後も小さい排気量には有利なヤマハやスズキの2ストマシンとも、空冷4ストで闘っていたので、最高出力を出す事に対しては自信を持っていました。
アメリカの二輪市場はハーレーのように大型車が中心で、他はBSAやトライアンフのような英国車で占められていました。その一番速かったOHV2気筒650ccのトライアンフ・ボンネビルT120をターゲットにして。新設計の450ccで650cc以上の性能を出すことを目標に開発しました。ホンダ初のDOHC4バルブと、バルブスプリングにはコイル式のスプリングが無いトーションバータイプを採用すると、本田宗一郎の思い入れが強く反映されたモデルとなりました。
トーションバー方式は1万回転以上を常用するようなレーサー向けのメカニズムで。バルブクリアランスの調整にシム交換が不要、開閉タイミングを正確にする目的でしたが。現在は採用される事は無くなっています。
444ccのパラレルツインのエンジンには2連装の負圧式CVキャブレターを採用したものの、ピーキーな特性でした。最高出力では43馬力とトライアンフ・ボンネビルT120に肉薄するのですが。ボアストロークが70㎜×57.8㎜とショートストロークで高回転エンジンで有った上に、初期型は4速ギアで有ったので上手く噛み合わせるのが難しく。忙しい乗り味になってしまいました。広告には初心者にはおすすめできないと書いて有ったり。フレームにも問題が残り、初期型でもフレームが3種類あるなど。恐る恐る乗ると曲がらないマシンになりました。
ホンダのピーキーなエンジンよりも、大排気量による低速トルクの余裕が求められている事が解り、性能的にはトライアンフに並んだものの、完勝とはなりませんでした。
ホンダのアメリカ法人には更なる大きな車両を求められるのですが。本田宗一郎がスイスに行った時に、当地のポリスが乗っていたトライアンフ、750ccのバイクを見て。小さいバイクで来たなと、お巡りさんがデカいのを実感するまで。中々理解の出来るものでは無かったようです。そこからは本田宗一郎が、大きいバイクを作らねばと思うようになりました。
CB450は一応は歓迎され、CB77からCB350へとなったモデルと合わせれば、それなりに販売台数を上げました。
ホンダ・ドリームCB750FOUR
1968年の秋にプロトタイプとして、モーターショーに発表したCB750FOURは。見る物を圧倒する雄姿を見せていました。1480㎜の長いホイールベース、4ストローク・750cc・OHC・空冷4気筒・750ccのエンジン。量産車初の油圧ディスクのブレーキと。日本車どころか世界の二輪車と比べても比べられない程、今までの概念を覆すモデルとなりました。
タンクのデザインは今までのクロームメッキに、ニーグリップのラバーを付けたデザイン(これはこれでコストが係っている)から。キャンディカラー(シルバーの上にクリアカラーを塗装)と大きく変わりました。
ヨーロッパのライバル達
CB450でトライアンフ・ボンネビルT120のパワーに並んだものの。更にトライアンフのトライデント、BSAもロケット3と三気筒車を開発すると情報が入りました。4気筒のバイクはMVアグスタ 600 ツーリスモが既に発売されていましたが、量産車では無い上に価格は非常に高価で有ったし。訳が有ってドライブシャフト車でした。
あえて750ccのSOHCになったエンジン
ホンダがWGPで活躍していたマシンは、350cc、250ccの6気筒、125ccの5気筒と多気筒エンジンは実績を残していたし。一番上のクラスの500ccではRC181の4気筒とオーソドックスなレイアウトで1966年にチャンピオンになっていました。レーサーでは2スト車のスズキやヤマハと、その都度レコードを塗り替えて行く争いをしていました。
ホンダがやろうと思えば、6気筒のレイアウトも不可能では無かったし。開発初期には1000ccクラスも考えられたのですが、車両の重量と大きさを考えて750ccクラスにする事になりました。
あえてピーキーな性能に持って行かない、61.0×63.0ロングストロークエンジンと。SOHCで有ったのもCB450の忙しいイメージを払拭する為のものでした。DOHC化も必要ならば、モデルチェンジした時にすれば良いと。あえて余裕を持たせたのです。ただエンジンの幅については、跨れる寸法が決まっているので。シリンダーの間隔をギリギリまで狭める以上に、CB450ではクランク端から動力を取っていたのに対して。CB750FOURはクランクの中心にチェーンでミッションに伝達し。更にもう1軸をドライブスプロケット、後輪のチェーンへとドリブンスプロケへ繋げる方式を取り。エンジンの幅を切り詰める、エンジンの真ん中を車体の真ん中に置けるようにしました。
クランクのベアリングにはCB450の組み立て式クランクから、一体型のメタル軸受けへとなりました。エンジンオイルの信頼性が上がって来た事と、クランク回りの軽量化を求めての決断でした。
開発に当たってはV型エンジンや、水平対向エンジンも検討されました。4ストの並列2気筒には67年発売のカワサキW1や70年のヤマハ・XS-1を見ても。650ccクラスの大排気量車には、バランサーが無いと振動を抑え込む事が出来ず。ボンネビルT120も、樽型のグリップだったり工夫の跡が見られるのです。
ホンダはこの振動に対して、パワーのロスに繋がる事に非常に気を使っていたので。WGPでは125ccの5気筒、250ccの4、6気筒と多気筒マシンを作っていたし。2気筒エンジンにパワーロスに繋がる、バランサーを付ける考えよりも。実績もある振動の少ない4気筒で行こうとなるのが、自然な流れでは無かったのでしょうか。
CB750FOURの開発で結局最後まで苦労したのは、タイヤとチェーンの耐久性では無いでしょうか。既存のチェーンではすぐ伸びてしまうので、72年に出るカワサキ・Z1もチェーンにエンジンオイルを垂らす、オイル自動給油装置が付いていましたし。タイヤも200㎞を超える速度でも安全で有る事、耐久性も考慮しなければならないと、要求するものが高かったのです。チェーンはシールチェーンになってK7から、自動給油装置は無くなりました。
CB750FOURはアメリカ法人の要望で、開発の最初から最後までスペックを決めたし。まだ高速道路が一部開通し始め、国道以外は殆どが未舗装路だった日本でしたので、こんなに大きなバイクが売れるとは思っていませんでした。公式にも書いてあるように、ハイウェイの長距離ツーリングを、より快適に、より安全に。全てを物語っていると思います。
それでも日本で売れたのは、世界一の二輪車を所有すると言う、解りやすいステータスが有ったからでは無いでしょうか。70年代のスーパーカーブームでは「買えない」ランボルギーニ・カウンタックやフェラーリ512BBよりも、同様の加速を得る事の出来る。手の届くCB750FOURやカワサキ・Z2を買うと言う選択を取った人もいるのでは無いでしょうか。現在のスズキ・隼やカワサキ・H2R、リッターのスーパースポーツを買うような感じでしょうか。
世界最小4気筒のドリーム・CB350FOURは2気筒車より遅いとレッテルを
CB750FOURはアメリカ向けに作ったので、日本人には大きなバイクでしたので。一回り小さいモデルとしてCB500FOURを作り。CB750FOURの荒々しさを取った、上質なモデルとして。タンクやクランクケース、マフラーは落ち着いた大人のデザインとなり。アメリカではバイクオブザイヤーを貰いました。750と500の二枚看板で好調な売れ行きでしたが、もっと下のクラスを見るとスズキ・GT380、カワサキ350SS、ヤマハ・RX350と2スト勢が強さを見せていました。それらに対してはCB72の血統で有る、CB250/350の2バルブ2気筒車で対抗していて。アメリカではスクランブラー版のCL350とオフ版のSL350は人気を得ていたのですが、基本設計が10年以上前のエンジンは限界が見えていました。
それらの巻き返しとして2気筒のCB350シリーズ(Tやセニア、エクスポート)の上位に当たる、72年に発売したCB350FOURを開発となるのですが。この350cc4気筒の市販車は全く未知で有った上、コンセプトも漠然としたもので。エンジンを見ても47㎜×50㎜のオーバースクエア、OHCの2バルブと。そのままCB750FOURを小さくしたような、トルク型のエンジンでした。4スト2気筒車の得意とする部分と被ってしまった上に、4気筒の弱点で部品点数の多さで有る重量とコスト増が。悪い方向に噛み合ってしまったのです。
アメリカは白黒つけるのが好きで、二輪専門誌がテストを独自にし。CB350は0-400m15.55秒、最高速164.8㎞/hに対して。CB350FOURは15.9秒、151.4㎞/hとデータを公表しました。その結果、同時に売っていた2気筒のCB350セニア・22.4万円よりも、CB350FOUR・26.5万円(1972年モデル)は遅いとレッテルを張られてしまいました。
デザイナーの佐藤允弥(まさひろ)氏は、漠然とCB750FOURの350モデルを作ってしまった。跳ね上がった4本出しのマフラーや、クロムメッキを多用したゴージャス差も750そのままに。明確なイメージも無く仕事をしただけ、デザイナーの責任大で有ったと語っています。
もし現在のカワサキ・ZX25-Rや90年代のホンダ・ホーネットのような、ショートストローク+DOHC4バルブで1.5万回転オーバーの超高回転エンジンに。8段ミッションの組み合わせで、なんて事も1966年のWGPマシンで有る、125cc5気筒のRC149で作っていたので。やろうとすればホンダとしては出来たのでしょうが。その頃はシビックの開発も有って、4輪事業の方に人員を取られていたのでした。
アメリカではデザインの上質な小さい車両、マイルドなエンジンとして、女性に扱いやすいフィメールバイクとして受け入れられました。しかし儲からない、遅いCB350FOURは2年ほどで製造を終えて。次のCB400FOURへとバトンタッチされました。
ホンダドリーム・CB400FOUR
ゴージャスだがチグハグなエンジンにより、2気筒より遅い4気筒のレッテルを張られてしまった。明確なコンセプトやターゲットが無かったドリーム・CB350FOURに対して、ホンダの回答は2年後。74年発売のドリーム・CB400FOURとして発表されました。
例えるならばCB750FOURが豪、500FOURは静、400FOURは動のイメージで開発が始まり。それが良く表れていると思います。
この頃アメリカでは世界最速で有ったCB750FOURに対して、アップハンドルでハイウェイのロングツーリングを楽しむ層もいれば。一昔前の最速で有ったBSAやトライアンフのような、低いハンドルにシングルシートとカウルを付けてレースを楽しむ層が居た。カフェレーサーブームが起こっていました。そこには集合管を作ったヨシムラも、エンジンパーツを市販したり大きな影響を与えていますが。イギリスのリックマンや、ロータスF1の黒と金のカラーで有名なJPSのカウルを付けたノートンの市販車等も人気を得ていました。
ホンダはカフェレーサースタイルを取り入れる事にして、外観を一新し。4to1の集合菅で重量とコストを抑え。6速ミッションに加え、エンジンを4㎜ボアアップ408ccとし、排気側のバルブも1㎜広げ。350のフラットな特性から高回転で伸びるようなメリハリをつけてスポーツ性を高める事に成功しました。鋲打ちシート、ステップ位置も10㎜程後方にし。当時はアメリカ向けのアップハンが多かった中、ヨーロッパ型の低く幅の狭いコンチネンタルハンドルを装備し、50年代のようなスタイルは注目を集めました。
CB750FOURもFOUR-Ⅱとしてカフェレーサースタイルを取り入れるのですが、こっちは中途半端な部分も有ったり。重厚なCB750FOURが売れて地位を確立していたので、何故こうなったとダメだしをくらいました。
エンジン性能はゼロヨンが1秒以上速い、14秒台前半を出して350とは比べ物にならない結果をだしました。50ccアップの恩恵以上に、CB350セニアとは差をつける事が出来ましたが。50ccアップすると言うと、逆に上も下も見えてくる事となりました。
アメリカでは、ヨシムラ、モリワキ、ヨシマと言った日本人のチューナーから。ヨーロッパはビモータ、マービング、ジェブズ等。460ccにボアアップした車両で、アマチュアレースに出場するという。次世代のCBX400Fが発売してもCB400FOURを欲しがる人が居る程、人気が衰えなかったのです。
コストを抑えるつもりが、コスト高に繋がってしまった。
CB400FOURを語る上で一番の大きな問題は、1975年の免許改正によって。教習所で取れるの上限が、二輪車は400cc以下に限るとなってしまった事です。限定解除をするのは大変になったのに、408ccのCB400FOURは限定解除が必要になってしまったのです。
ホンダは日本向けには398ccのCB400FOURを作らざるを得ず。2種類のクランクとピストンが必要になった上、ハンドルもアップハンFOUR-ⅡとコンチハンFOUR-Ⅰの2種類を作った為。3種類のラインナップが並び、更なるコスト高を招いてしまい。398ccの国内モデルはわずか1年ほど、訳6000台で生産を終了する事なりました。
生産中止を発表した時にヨーロッパのディーラーでは、生産継続の署名運動までになったのですが。儲からないヨンフォアは、次のCB400TホークⅡへと入れ替わる形でバトンタッチされました。
売れるならば高くしても売れるのでは?
CB400FOURは32.7万円で発売されました。発売直後は125cc超は同じ免許。250cc超は車検有りというのが大きな区分でした。型落ちの中古車も含めて考えると450ccはCB450の流れを組む2気筒のCB450セニア(72年モデルの新車が29.3万円)、350ccもCB72から来るCB350セニア(同年22.4万円)。他社は2スト勢の74′ スズキ・GT380(30万円)。74′カワサキ・400SS( 26.3万円)。76年まで行くと最新のスズキ・GS400が32万円、バトンタッチした77′ホンダ・CB400TホークⅡですら31.9万円と、やはり価格は高かったのです。今のように普通二輪と大型二輪と、住み分けがはっきりしていれば価格をポンと上げる事も出来たかもしれませんが。免許改正が施行されたばかりで、中型限定の二輪の免許をこれから取る人の方が市場には、まだ少ないのが現状だったのです。
上のクラスにはCB550FOURが37.5万円、74′カワサキ・500SS(36.5万円)。更に一番上ならば74′CB750FOURは42.5万円。74′カワサキ・Z2は46.5万円。安い中古も有ると考えればキリが有りませんが。CB400FOURは限定解除してしまえば選択肢が沢山有り。流石にCB550FOURの価格まで上げる事は、上位モデルとの差別化が出来なくなるし。激戦区だった上に上下板挟み上に有って、自社の上位モデルを超えるような価格に引き上げる事は出来なかったのです。
ホークⅡが出ると、CB400FOURはプレミア価格へ
4気筒のCB400FOURから、二気筒のCB400TホークⅡへバトンタッチされると。ホークⅡのライバルに居た新開発のスズキ・GS400も同じ2気筒と、中免(400ccまで)で乗れる4スト4気筒車はラインナップになくなりました。日本向けで有ったCB400FOURの398ccは、生産台数が少ないとなれば。唯一の4気筒という事で中古価格はどんどん跳ね上がる。
ホークⅡはCB400FOURのようなカフェレーサースタイルとは全く違う、アップハンドルに厚ぼったいシートと丸いタンク。ヨーロピアンなのか、アメリカンなのか解らない独特なデザインに加え、バブバブと聞こえる排気音は物議を醸しだし。CB400FOURのデザインはやはりカッコよく映る。
しかしホークⅡはCB72の流れを組むCB360Tを改良した、4スト空冷2気筒・OHC3バルブに、1万回転まで回る超ショートストロークエンジン。そして振動を打ち消すバランサーを内蔵した、40馬力を出す戦闘力の高いエンジンで。当時ホンダの最先端で有ったコムスターホイールや、乗りやすい車体バランスで、野暮ったいデザインながらも走りは鋭いものとなりました。
価格も高騰してる中古の遅い、CB400FOURを買うのか非常に迷ったと思います。速いが野暮ったいホークⅡを買うのかと言う中で、2ストの新車ラインナップもまだ有りました。400ccクラスだけでも、スズキGS400やGT380。カワサキのKH400、ヤマハRD400とGX400と選択肢が沢山有りましたが。2スト車は70年代前半の350cc時代から。免許に合わせるように400ccモデルチェンジしても、排ガス規制により余りパワーは変わらないと、徐々に牙を抜かれていました。
翌78年8月にホンダはCB400NホークⅢとして、ヨーロッパで先行されていたCB900Fのようなヨーロピアンデザインを取り入れましたが、それを見たら新らしい大型CBは4スト4気筒じゃないかと。
スズキ・GS750は76年に発売、同78年に発売されるCB750Fを見たら高性能な大型車はみな4気筒。CB400FOURで作れるんだから、400cc4気筒を出してくれとなるのは当然だと思います。そして翌79年にカワサキ・Z400FXが発売され、キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
となった訳でした。各社も続くようにヤマハ・XJ400、スズキGSX400F、そしてホンダ・CBX400Fが発売される事になりました。
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