カワサキ・Z1(Z2)、そして伝説へ…

ツーリング

カワサキ・900 Super4。ビッグバイクの幕開け。美しい造形と革新的なメカニズム。数々の伝説を残した型式名Z1。1972年に発売されて既に半世紀がたちますが、いまだに走る個体は多く根強い人気が有ります。その人気の理由や、開発秘話や発売された経緯等をまとめてみました。非常に長いですが、作者の並々ならぬ思いを感じて貰えれば・・。

参考書籍

排気量クラス 大型自動二輪車
車体型式 Z1,Z1A,Z1B,
エンジン Z1E型 903cc cm3 
空冷4ストロークDOHC8バルブ直列4気筒
内径×行程 / 圧縮比 66 mm × 66 mm / 8.5:1
最高出力 82ps/8500rpm
最大トルク 7.5kg-m/7,000rpm
製造国 日本
製造期間 1972年~1976年
タイプ ネイキッド
設計統括 大槻幸雄
デザイン  
フレーム 鋼管ダブルクレードル
全長×全幅×全高 2200 mm × 0865 mm × 1170 mm
ホイールベース 1490 mm
最低地上高  
シート高 815 mm
燃料供給装置 キャブレター (ミクニVM28SC,VM28SS)
始動方式 セルキック併用
潤滑方式 ウエットサンプ
駆動方式 チェーン
変速機 前進5速(リターン式)
サスペンション テレスコピック式
スイングアーム式
キャスター / トレール  
ブレーキ シングルディスクブレーキ
ドラム
タイヤサイズ 3.25-19インチ
4.00-18インチ
最高速度 200km/h
乗車定員 2人
燃料タンク容量 18 L
燃費  
カラーバリエーション キャンディートーンブラウン,キャンディートーンスカイブルー,キャンディートーンイエロー,キャンディートーンスーパーレッド
本体価格  
備考 輸出専用車

※ウィキペディアより転載

500SS、マッハⅢは世界一。だったが・・。

W1 右足チェンジ 左足ブレーキだった

60年代中頃、カワサキは当時、国内市販車最大排気量650-W1(通称ダブワン)を生産していたものの。ジェットエンジンの方に優秀な人材を取られ、二輪部門の販売は苦労し。辞めるか辞めないかという瀬戸際に立たされて、バイク事業の立て直しが必要でした。後にZ1開発者責任者になった大槻幸雄氏は、カワサキは世界一のバイクを作らなければ生き残れない。とにかく世界一をやろうと。その結果産まれたのが「じゃじゃ馬」マッハⅢでした。

止まらない、曲がらない、真っすぐ走らない。500SS MACHⅢ

69年に発売された500SSマッハⅢ。主なターゲットはアメリカでした。空冷2ストローク497cc三気筒という、当時量産車初のレイアウトで。他を寄せ付けないリッターあたり圧巻の120psを叩き出し。加速性能と言う点では世界一のマシンになりましたが。前後バランスの悪さとブレーキ性能、そしてパワーに有っていないフレームによって、乗り手を選ぶ過激なマシンになり。そしていい意味でも悪い意味でも、カワサキのブランドはこうだと言うインパクトを残しました。過激だが世界一、世界最速のバイクは作った。しかし同年にはZ1を作るターニングポイントとなった、ホンダ・CB750FOURが発売され、カワサキの世界最速は3日天下で終わったのでした。

打倒ホンダ! ホンダ・ドリームCB750FOURの存在

ナナハンの言葉を生み出した、ホンダ・CB750FOUR

70年ごろの日本は舗装路が15%程と未舗装路が多かったので、マッハⅢのような過激な乗り物や。ナナハンオーバーの大きなバイクを乗るという事は、費用も含めてそれなりの覚悟が必要で。今よりも敷居が高かった事は想像して頂けると思います。日本よりも広大な土地が有るアメリカでは、先にハイウェイの敷設は始まっていましたが。路面の舗装状況は日本より良いとは言えませんでした。ハイウェーのような長距離を高速で走るのには、スピードを出しても安定感の有る車体。壊れない頑丈な4ストエンジン、そして大きなエンジンのバイクが求められていました。2ストはすぐ壊れそうだし、芝刈り機みたいで嫌だ。排ガスも環境に悪いというイメージでした。

60年代の国道18号、碓氷峠。
ヤングマシンより、1973年夏、Z2の冒険

そんな中CB750FOURの出る以前、将来4ストロークの大型エンジンが必要になると踏んでいたカワサキは、マッハⅢの開発と同時並行でZ1のベースとなるテスト車。750ccDOHC4気筒のN600を開発し68年の3月に完成し、73馬力を出して喜んでいたのですが。ホンダはカワサキより一足早く、68年10月の第15回東京モーターショーにCB750FOURのプロトタイプを出展し。カワサキは情報を事前に得ていなかった為、同じ750ccの4気筒という事で大きなショックをうけました。CB750FOURは発表と共にバックオーダーを抱えて、年間目標の1500台が月産になり。当時の価格が38万5000円と、日本では決して安くは無い価格(アメリカは1ドル360円と円が安かった)でしたが、更に月産目標が3000台となり大好評を得ました。

Z1のクレイモデル。タンクには749の文字が749ccを物語っている。

カワサキのプロトタイプN600をこのまま出したら、同じ750ccでは後塵になってしまう。ならば徹底的に倒す為にエンジンを大きくしようと、900ccにする事になりました。当時はハーレーにもスポーツより(スポーツスター)の900ccが有り人気が有りました。カワサキはCB750FOURのSOHCよりも更に高回転高出力に向いている、DOHCならば何が来ても勝てると思い。開発に踏み切る事になりました。

黒に塗られた初期型エンジン。DOHCの文字が入ったポイントカバー。

失敗は許されない、何が何でも世界一を

刺激的(衝撃的)なマシンのマッハⅢが主にアメリカでそれなりの評価を得た事で、二輪事業は危機をとりあえず脱しましたが。「Z1を成功させねばカワサキの二輪事業は潰れる、やるからにはライバルよりも1馬力でも良いから上回って何が何でも世界一にする。カワサキの戦闘機、飛燕(ひえん)のエンジンにしても大学出の経験の少ない若いエンジニアが担当して作ったから、バイクのエンジンでも出来ないわけが無いと後で思った。」と、開発責任者の大槻氏は語っています。

飛燕とH2

それまでは車体設計担当の人は車体を何種類か兼ねて、エンジン設計担当ならばエンジンを、デザイン担当者も同様にデザインだけという風に、掛け持ちしていたのですが。Z1のプロジェクト「ニューヨークステーキ作戦」では、各開発担当者がZ1だけに集中する事になりました。それまでは考えられない異例事態でした。

カワサキの本社は兵庫県。特上の神戸牛をお届けするという意味も込められていたとか。

大企業のプロジェクトチームという事で、大所帯をイメージするかもしれませんが。当時は多くても10人程だったそうです。プロジェクトチームの良い所は、エンジンの会議でも車体やデザインの担当者も参加して。車体の話の方に触れて行けば、そっちがメインになっていく。若手の意見で反映なんかされないだろうと言った事でも、良ければ採用される今まではエンジン担当は個別にエンジンを作る。車体は車体を作る。そうすると必ずどこかでぶつかる。例えばマフラーやエンジンでパワーを優先するのか。車体との重量バランスを優先するのか。デザインを優先するのか。最後はいつも喧嘩になり、どちらを譲るのかという話ばかりになる。車体設計の人でもデザインに意見を出したり、垣根を超えた意見交換が出来るので。最後にぶつかるのでは無く、設計の時点ですり合わせる事が出来る。失敗すればカワサキは潰れて、飯が食えなくなるという思いがプロジェクトチームにはあり。互いに言いたい事を必死に議論し。そして上記である、各開発担当者はZ1だけに集中する背水の陣を敷いた。その結果、スタイリング、動力性能、メカニズム共に、当時の水準を大幅に超えたマシンが出来上がりました。

ニューヨークステーキ作戦

当時カワサキはそれぞれのニューモデルの開発コードに「ステーキ」の名をつけていました。当時のアメリカでもステーキはご馳走で、Z650には「サーロインステーキ」400RSには「ハリパットステーキ」。Z750Tには「Tボーンステーキ」。そしてZ1には「ニューヨークステーキ」と。ニューヨークステーキは大きなステーキを意味していたそうで。カワサキはそれだけ北米を重視した戦略をとっていました。それはアメリカに生産工場を作った事が、一番の回答になると思います。

1200ccまで行ける頑丈なエンジンを作った

72年~73年製造のZ1Aと呼ばれる前の初期型は特にカワサキの利益よりも世界一を取ると言う意識が現れていて。わざわざ黒く塗装されたエンジン。火の玉カラーのタンクは内プレスと呼ばれる溶接が内側に施されたり。初期型のマフラーは抜けが良く、音も大きい品番の無い無番マフラーと呼ばれています。またフレームナンバーも5桁まで(10万台以下)だったのですが、76年のA4からは10万台が見えてきたので、6桁の番号になりました。75年からはアメリカのネブラスカ州に、自動車業界初となる現地生産工場を建設し。

Z1のエンジンはカムシャフトやクランクにクロモリ素材を使い、コストの高い構造になりました。

ホンダCB750FOURは、現在は主流のメタル軸受けの一体型クランクシャフトを採用しましたが。まだ生産経験としては少なく、最初は効率の悪い生産体制でしたし。精度の必要とされる部品の品質管理にはコストがかかる。また当時の整備体制を考え、過去の実績や信頼性と言う意味では、カワサキはマッハⅢで証明された組み立て式クランクを採用し。大きくて重くなっても構わないから、ボアアップを想定した耐久性を重視する事になりました。この理念と言うか考え方は、78年発売のZ1000MK2まで。Z1やCB750FOURに対して次世代マシンとも言える、78年のスズキ・GS1000(750)や79年のホンダ・CB750F(900F)が出て。排気量の大きなエンジンによるパワーだけでは無い。軽くかつ剛性の有る車体も含めたトータルバランスの良さによる、明らかな性能差が出始めるまで続きました。

スズキ・GS1000。Z1を徹底的に研究し産まれたマシン。
CB750Fをベースに改造されたマシン。フレディ・スペンサーが活躍したため、通称スペンサーカラーと呼ばれている。

直系のエンジンとしては903ccのZ1から、Z1000、Z1000MK2までとも言われます。Z系のエンジンが長く続いた理由は、1200ccまで排気量を上げられるように設計した、頑丈なエンジンを作ったからこそです。しかしエンジンに手を入れる余裕は有っても、車体にはそれほど余裕があった訳では無く。パワーを上げて絶対的なスピードが上がればフレームが負けてしまうので。レースで使うような場合は、フレーム補強必須(現在のラジアルタイヤを入れると乗りにくくなる)でした。それを一新し、フレームも含めた大きな改良を施した、80年のZ1000J。Z1100GPまで(カウル車も入れれば83年のGPz1100まで)徐々に排気量を上げていき。72年から80年の間に、Z1のエンジンを踏襲する車両は約30万台以上生産されました。

第二のZ1を作ると言うコンセプトで有った、次世代水冷エンジンのGPZ900Rが登場するまでの間。Z1のエンジンは、約10年間もカワサキのフラッグシップ機に改良されつつ使われて。AMAスーパーバイク選手権などのレースでも更にチューンを施されて輝かしい功績を残しました。

通称角Zのジャンル。AMAでも活躍した。KZ1000MKⅡ。発売当時は日本ではあまり知られてなかったそうな。日本モデルのZ750FXも売れなかったし・・。
Z1-R、カウルがハンドルマウントなのと、詰めが甘いからハンドリングの評価が低い。

66mm×66mmのスクエアエンジン

Z1のエンジンはボア×ストロークがどちらも66mmのスクエアエンジンですが、一般的にパワーを稼ぐならばボアを大きくして、ショートストロークの高回転エンジンにすれば良いのです。実際に746ccのZ2は64.0×58.0mmのビッグボア、ショートストロークです。(ちなみにCB750FOURは61×63mmのロングストローク)何故そうしたかと言えば、実際は出てきませんでしたが、ホンダがZ1を超える大排気量モデルを出してきた時に対抗する為です。実際に釘をさされてしまったのか、ホンダの市販車モデルでは。78年の次世代CB900Fまで、Z1を超えるような対抗馬は作れなかったのです。

現在もエンジンのチューンでパワーを稼ぐには、ボアアップする手法は良くある話で。空冷エンジンで有れば社外品のボアアップピストン等は、今も売られている車種もそれなりにあります(大分少なくなってきましたが・・)。実際にZ1からZ1000へとモデルチェンジして行くたびに排気量がアップして行きました。

モータースポーツではF1やマン島、市販車としてはスーパーカブで既に結果を出していたホンダの開発力には、到底その頃のカワサキの二輪部門では対抗できないカワサキのバイクはマッハⅢのようにその頃は2ストがメインで。4ストと言えば吸収合併した、メグロの系統W1等しか有りませんでした。

スーパーカプ

ホンダがZ1に対抗して新しい車種を作ってきても、カワサキにはZ1の開発のように、1からまたスタートする程の予算や開発力は当時ありません。ならばスクエア、もしくはロングストロークのエンジンにして置けば、排気量を上げるのにボアを広げるだけで対抗できる。そして異なる部品がピストンとシリンダー、ピストンリングだけで良いので、違いを少なく出来る。1200ccまで耐えられるクランクやシリンダーを作れば、少ない予算、開発力でホンダに対抗できると考えました。

まさにその通り、Z1100GPやGPz1100の1089cc。120馬力まで引き上げる事が出来ました。耐久性を無視したエンジンチューンならば、1200ccオーバーで有るカスタム部品のラインナップも見受けられる事となりました。

CB750FOURは開発時に本田宗一郎が、こんな大きなバイク誰が乗るんだと語った、そんなエピソードが有りましたが。Z1は更に大きく、パワフルなエンジンになりました。エンジンだけ、排気量で有ればハーレーは1200cc。しかし今で言えばクルーザーやツアラーモデルでジャンルが違います。スポーツモデルで有ればカワサキは624ccのW1SAを既に作っていたし、日本ではそこで4ストの大きなエンジンが始まったとも言えると思います。しかしその頃は同じ2気筒650ccクラスのノートン、BSA、トライアンフと言った英国のスポーツ車の方が先を進んでいました。そんな中ホンダの4気筒750ccやカワサキの900ccが出れば、スポーツ走行を楽しみたい層は衝撃を受ける訳です。カワサキのWでは1番では無かったが。CB750FOURが出て更にZ1が出た。こんなにデカいエンジンなのにスポーツ走行を楽しめる。人気が出ない訳が無い。そして70年代はビッグバイクの幕開けと共に、日本車の天下になった訳です。

特徴的なシリンダーヘッド

車体設計から見て、Z1のエンジンで一番の問題点はカムシャフトでした。DOHCという事で、カムシャフトは2本必要です。シリンダーも1200ccレベルと非常に大きかった為、シリンダーヘッドも伴って大きくなってしまう。そのままではアメリカ人の大きな体でも、膝がヘッド部にあたってしまう。車体設計から幅を詰めて欲しいと要望が出た為、カムの素材を曲がりに強いクロモリ製にして両端の軸受けを無くして幅を詰めましたカムシャフト自体は素材でクリアしたものの。受け側、端っこの軸受け部を無くしてしまうと、少なくなった分だけ信頼性が心配でしたので、軸受け部にはメタルを入れることにして。4か所(本来ならば6か所)でカムシャフトを支えるという、Z系のエンジンの特徴とも言えるシリンダーヘッドが出来上がりました。

一時期復刻された、純正のZ1、Z2用ヘッド
ホルダーを外すと
Z1(PMC)のカムシャフト。両端がカム山。
GPZ900Rの(ヨシムラ)カムシャフト。カム山の外に軸受け。(サイドカムチェーンなのでスプロケが左)

オイル窓を初めて採用

テストでは早く結果を出さなねばならなかったので、谷田部のコースで平均速度が230㎞となる程のハードな走行を続けました。最初の頃はオイル漏れが酷かった為、ツナギが汚れてしまうので、カッパを着ていたそうです。オイル漏れはスチール製のネジと、アルミのシリンダーによる、熱膨張の差が原因で。ガスケットの面圧を下げる事で対応しました。

またオイル漏れで減った分を足すのに、ゲージを刺して確認するのが面倒。オイル口も狭くて足すのに時間がかかる。オイルが一目で見れるようにしてくれ、口も広げてくれと要望し。Z1で初めてオイル窓が採用され、口も広げられて現行のサイズまで大きくなりました。

工作技術力、部品の限界

終わって見れば頑丈に出来上がったZ1のエンジンですが、テストではクランクの大端部に焼き付きを起こしました。製造すれば当時の加工機械では、どうしても加工に誤差が出る。また組み立て式クランクの組み立て精度で、どうしてもバラついてしまう。程度の良い物は0.005mm以下のフレだそうですが。その曲がりやフレだけで無く、180度位相も合わせなければならないし。今でこそ沢山のノウハウが有るものの。そこはバランスを取るとなると、最後はやはり職人の世界です。量産体制を取るのにサイドにワッシャーを入れて対策をしました。また部品の組み立ても加工誤差の有る物を2種類の組み合わせ(例、長い0.007mmの物は短い0.003mmの物と計0.01mmに合わせる。0.006mmなら0.003mmでも計0.009mmなので誤差内でまあ良し。両方0.005mmなら計0.01mmで〇。0.003mmと0.005mmでは計0.008mmで×。メタルの嵌合みたいなイメージ)にする事で対応しました

また量産の始まりかけてた時に、テストでは2万キロでクラッチが滑り出す事が解りました。対策部品を作っても、テストする時間が少ない為。ワザと半クラッチで走行し続け。クラッチ板を焼結する事で対策し、半クラッチで無理な走行を続けて200回は持つ結果を経ました。クラッチとクランクはコストは掛かったものの、耐久性では素晴らしい物が出来上がった訳です。

しかしドライブチェーンはCB750FOURからエンジンパワーが劇的に上がった為、既存のノンシールチェーンでは耐久性が厳しくなっていました。CBには少量のエンジンオイルをエンジンからドライブスプロケへ流れていく、給油装置がついています。Z1も同じように給油装置がついていました。しかしテストでは谷田部を2~3周も走るとダルンダルンに伸びてしまった

当時ではZ1(Z2)のみが一番大きな630サイズと、1コマが大きなサイズにしてチェーンの伸び対策にはしましたが。粘度の低いエンジンオイルではスピードを出すとすぐに飛んでいってしまうので、あまり効果は無かった。それにリアホイールやチェーンカバー、そして衣服も汚れてしまうと、非常に不評でした。その後シールチェーンが採用されるようになって、Z1Bで給油装置は廃止されました。

Z1から続く空冷エンジンの系譜は、Z1000MKⅡからZ1000J系と、Z1100GP系に分かれましたが。次世代84年のGPZ900Rが出るまでの間、基本的なメカニズムは変わらずに、10年近くカワサキの旗艦であり続けました。それだけ続いたこのエンジンは時代にマッチしていたし、開発時の先見性が間違ってなかったと言えます。ただし大きなエンジンであった為に、パワーが上がるにつれて車体も重くなり。スポーツ走行と言う点では限界が見えてきます。

ちなみにZ2の750cc空冷エンジンはと言えば、73年750RS(Z2)、76年Z750FOUR、そして78年のZ750FXで終わり。その後の750cc以下は軽くてコンパクトな車体を目指す事になり。Z1のプロトタイプN600のエンジンを強く引き継いだザッパーへ。そしてZ650ザッパーのエンジンを大きくしたZ750FX-Ⅱや、90年代のゼファー750に。小さくした400ccはZ400FXやZ400GP、そしてゼファー400へと引き継がれていきます。

デザインは1か月程で仕上がった

アメリカで公募したマッハⅢのタンクのデザインが好評だった為。当初デザインはアメリカのデザイン事務所に委託して、カワサキの担当者とも共同でする予定でした。しかしそのモックアップが良くなかった為、前に開発していたN600のモックアップを引き継ぎました。

当時アメリカで人気だったイギリス車のデザインは、ティアドロップ型のタンクが多かったので。それにアメリカの風味を意識した結果火の玉カラー(ファイヤーボール)とイエローボールのタンクが出来上がりました。

一番苦労したのはエンジンの外観で、重量軽減も考えなければならないカバー類に大きな面取りをしてシャープさとグラム単位の軽量化を図りました。そして塗装が擦れたり、劣化で落ちていく不安は有りましたし。会議では現場のエンジニア達から理解をされて貰えませんでしたが、営業の方から「売るからやりたい」と後押しして貰い。現在も使われる黒いエンジンが実現し、Z1の個性を主張しました。

角が斜めに面取りされている。クラッチカバーのオイル窓はZ1で初採用された

最初はキャブまで黒くしようとしたそうです。ただ余りにも生産性が悪かった為に諦めたそうです。

ヨシムラ限定のブラックアブソリュート

マッハIV(H2)は竹を刀で切ったような、切りっぱなしのデザインにしましたが。Z1はメーターカバーにも空力を意識して、アンダーケースを作り絞った形にし。砲弾メーターと呼ばれる形になりました。

このメーターもテストではデザインにこだわった為、取付角度が立った事と。加速、最高速のスピードが上がったので既存のメーターでは読めない程に踊ってしまうという事で。カワサキは初めて日本電装(現デンソー「トヨタ傘下」)と共同開発したメーターを採用しました。

Z1・砲弾型のメーター
H2 マッハⅣのメーター
ゼファーχ(カイ)やZRXにも採用された、砲弾メーター
勿論現在のZ900RSにも

Z1以前のバイクはオーソドックスな形のバイクが多く形やデザインをもっと良くしようと言う感じは余りあませんでした。面白いものとしてキーホルダーを、富士山の形にしたインジケーターの上の方に入れる穴を開けたアイデアが有りました。

車体上でエンジンを分解出来るように

車体設計をするにあたって、差別化を図りたかったCB750FOURの真似をする訳には行かない。マッハⅢの良い面と悪い面を考えつつノートンマンクスの思想を参考にして、世界一を作るにはどういう方向にするか考えました。

初めて4気筒900ccの大きなエンジンを積む車体ですが、大きくしてしまえば運動性能は下がってしまいます。CBよりは大きくしないと言う目標は有りました。最初の設定が良かったのか、急遽作った車体なのに何故か上手く行った

エンジンの整備を車体上で殆ど出来るようにする為に、エンジンとフレームの位置関係にはミリ単位で調整しました。これはファインプレーで、後にレースで使われるようになった大きなポイントです。

当時のアメリカ人の平均身長に合わせたポジションにする為に、モックアップで足つきやニーグリップ、ハンドルグリップも作って握りを確認した

デザイナーと車体設計の関係は深く、デザイナーの意思、意図をくみ取って、実際に形にするのが車体設計です。メーターやミラー等の細かい物の取り付け位置や、リヤサスやステップ、ハンドル等の走りに影響する所まで車体設計の味付けでデザインは変わってしまう。そこまでの細かい所は車体設計がデザイナーに説明して、またデザインをして貰う車体設計が決まらなければ、デザインも決まらない。デザインを決めなければ、車体も決まらない。お互いがひたすら繰り返して、1か月程でしたが朝から晩まで働いて、出来上がったZ1の車体でした。

スポークホイールや4本出しのマフラーは、CB750FOURと同じその当時のベストで、オーソドックスなスタイルでしたが。Z2ミラーやテール砲弾メーター火の玉カラーのタンク等。Z1(Z2)のスタイルは、当時としては革新的なデザインで。Z1と言えばコレとなる、今にも通じるものとなりました。

特徴的なZ1のテール。テールカウルを付けたのはカワサキでは350SSが最初だとか。

ヨシムラとZ1の関係

集合管を装着したヨシムラZ1

Z1を語る上でヨシムラとの関係は、非常に深く。外せない内容だと思います。

70年代は日本車が王様だった時代。ホンダ・ヤマハ・スズキ・カワサキが飛躍した年代で有ると共に。町工場のチーム(78年は家族、従業員合わせてわずか8名だった)で有ったヨシムラが大きな存在を示した年代でも有りました。ヨシムラは60年代も国内では四輪のホンダ・S600のチューンを手掛けたり、レースで活躍をしていました。そして創業者の吉村秀雄氏(POPヨシムラ)はモータースポーツの本場、アメリカに進出を考えていました。そんな中CB750FOURが出て4本出しだったマフラーを、軽くする為に1本に纏めた集合管を作り装着した所パワーが出た。アメリカのAMAスーパーバイク選手権(市販車ベースのレース)でのデビュー時はトラブルで結果は出せなかった物の、デイトナ200マイルでトップを走り続けた事でインパクトを残し。そしてヨシムラはアメリカに進出する事になり、ヨシムラレーシングを設立しました。翌年72年の年末からZ1も発売されて、CB750FOURとZ1の集合管が市販され。マフラーのみならず、POPヨシムラがレース用に手作りで施したハイカムや、ポート加工。他にカムチェーン周りのパーツやミッションなども売れに売れました。(ヨシムラ特集ではないので、時系列がちょっとバラバラですが許してください)

バイクブロスより転載、当時のヨシムラカタログ?

製品を日本で生産しアメリカに輸出して販売していましたが。製品は日本らしいと言いますか、高品質で信頼性の有る物を作っていたので評価は高かったのですが。経営の面では「上手くない」。利益よりも信頼を大事にする日本人らしく、アメリカ人の共同経営者とは上手く行かず。利益を第一に考えていいた共同経営者にアメリカの「ヨシムラ」は乗っ取られる結果になりました。

黒い怪しい鉄パイプ・ヨシムラの集合管

あまり詳しくやるとZ1の話より、ヨシムラの話がメインになってしまうのでこの章で最後にします。

Z1が発売される時期にヨシムラは、USカワサキから実車を提供されました。POPヨシムラはすぐに分解、構造確認をしてノーマルのカムをハンドメイドで加工してハイカムにし、ポート研磨をする。それだけでエンジンはレッドゾーンの9000rpmを軽く超えて1万rpmオーバーに回る。今まで手掛けてきたフルチューンのCB750FOURよりも、上記のライトチューンを施したZ1の方がポテンシャルを秘めている事が解り。それを見たカワサキは73年にデイトナで速度世界記録の挑戦をする為に、Z1のエンジンチューンをヨシムラに依頼します。集合管を取付け、ハイカムやポート研磨を施したZ1は、1周の平均速度が約258km/hを記録し。カワサキはZ1の性能の高さや信頼性を世界にアピール出来て、ヨシムラはチューナーとしての実力を見せる結果になりました。

Z1用 Yoshimura F-TUNING HEAD 2023年抽選販売品

その後アメリカではヨシムラは人気で、日本語が解らなくてもカタカナのロゴ「ヨシムラ」は読めると言われる程の知名度になりました。

スズキ・ジムニー用 アピオ×ヨシムラ コラボマフラー

四輪のホンダ・S800のチューンで施したエキマニのタコ足が、同じような排気量のCB750FOURでは重量やバランスで有利になると考え。板に砂を詰めて丸めて筒状にし、最初は黒く塗られた怪しい鉄パイプでしたが。長さを変えたり集合位置を変えたり。バンク角の確保や各部の干渉も考えて、ひたすら試行錯誤を繰り返して作った集合管脈動効果の研究が本格的になるのはこの後で、まだよくわかっていなかったのですが。POPヨシムラ氏は自身が積み上げてきた経験に、更なる高みを目指して志(こころざし)が有ったから、本当に好きだったからこそ、失敗を繰り返しても前に進み。世界に認められるまでになったのだと思います。

HONDA S800
S800のノーマルエキゾースト。
66年、ホンダ・RC166 250cc 6気筒 集合していない6本出しのマフラー

今ではショート菅と呼ばれる、黒いヨシムラの集合管を取り付けたCB750FOURZ1は、こういった経緯があった。そして当時は性能の最高峰、最先端だったからこそ似合う、カッコイイんだと思います。(4本出しの純正もすきですw)

レースでの活躍

世界最速をCBから奪還したZ1は、アメリカだけでなくヨーロッパでも耐久レーサーのベース車として活躍しました。ヨーロッパの輸入元となっていたシデム社が、ヨシムラチューンのエンジンを載せたZ1レーサーで。74年、75年にはチャンピオンとして降臨しました。そして負けじとホンダはCB750FOURを魔改造した、CB-F開発の元となった、無敵艦隊RCBを作り上げたわけです。

次は開発競争が激化していく中、RCBに待ったをかけたパフォーマンス社が、今度はZ1ベースのKR1000を作り上げ。81年に世界王者を奪還します。CB750FOURに負けじと作ったZ1は、産まれた瞬間から戦う宿命にあったのです。70年代は世界最速のビッグバイクの戦いでは、ホンダCBカワサキZがやはり中心でした。

KR1000 片持ちのリアショックが特徴的

一方アメリカでは、81.82年のAMAスーパーバイク選手権で、Z1000Jベースの改造車が、チャンピオンを取り。記念車としてライダーのエディ・ローソンの名を冠したZ1000Rが販売されました。KRと共に「ライムグリーンのカワサキ」の強さを世界に印象付けたのでした。

日本では81年の鈴鹿8耐ではモリワキモンスターと呼ばれる、メーカーより先駆けて作ったアルミフレームに、Zエンジンを搭載したマシンで。GP500に迫る、当時のコースレコードを叩き出しました。モリワキモンスターでは無いですが、TT-F1クラスで79年のモリワキ・カワサキZ1では。Z1Bベースのマシンをモーリス製のマグネシウムホイール等で、232㎏から166㎏まで軽量化を施し。マン島TT等で活躍しました。それだけZ1が改造に対する許容範囲、ポテンシャルを秘めていたと言えるのではないでしょうか。

アルミフレームもそうですが、特徴的なフィンのあるマフラー

Z1から始まり、レースで華々しい活躍をしたZとカワサキでしたが。次世代の水冷マシンGPZ900Rを作ったあたりで、AMAでは空冷エンジン最後のチャンピオン、GPz750を最後にレースの世界からは離れていくのでした。

今もZ1の人気がある理由、高騰している理由

カワサキ・Z1、Z2。今から買おうと思うと、大手中古車サイトの平均価格が500万円とかで、とても高いです、そして今のところは下がって行く傾向は見えませんね。要因は色々と有ると思いますが。オジサン達が若いころに乗りたかったが、その頃は手に入れられなくて。いつかは乗りたくて憧れていた。そして金銭的な余裕や時間が出来たので買う。また筆者がZ900RSを買う時に、同じようにZ1には思い入れが有って。でも高い、乗り味も現在のバイクと比べればラクでは無い車両を維持する苦労などを考えれば、2006年まで作られたゼファー750ですら高くなっているので、似たようなバイクの選択肢も他にないしなんとなくZ1のデザイン、雰囲気があるZ900RSがファーストチョイスになる。そういったリターンライダーや、50代の人が多いと言っていました。

筆者のZ900RSカフェ。Z1に対して思い入れが有るので、火の玉カラー等のZ1を似せたモデルは買う気になりませんでした。

ただ筆者が一番思うのは、Z1はZ1でそれ以上でも以下でも無い。ゼファーはゼファー。Z900RSはZ900RSで。デザインは火の玉カラーと似ていても、どっちが上とか下とかは無い。違うバイクなのです。

スペックや、絶対的な速さ至上主義のレーサーレプリカブームでの80年代中後半や、まだその余韻が残る90年代前半辺りまでは。現在プレミアムにプレミアの価格(意味不明wともかく高いって事)が付いているZ2や、ホンダ・CBX400F、カワサキZ400FX、マッハⅢなどもまだまだ安く(当時でもそれなりには高くてホイホイ買えるものではなかったが、まだZ2はZ1の方が人気が有って安かった)。徐々に値上がりはしていたものの、まだ絶版である中古車のプレミア価格を考慮した上での、適正価格ではと思えるくらいでした。

89年にカワサキ・ゼファーが発売され、レプリカブーム以前のバイク達を懐古するスタイルとも言える。ネイキッドブームが始まってから、旧車達が今一度見直されるようになった。そして漫画やテレビなどでも取り上げられるようになって。そこから徐々に人気が出て、価格が上がっていきました。

湘南純愛組

80年代のZシリーズは計30万台以上生産されて、大型バイクが年平均計算で3万台以上という、今なら凄い生産数です。Z1はZ1Bまでで8万台近く生産されたそうです。時間は経って減ってきているとは言え、市場に流通した珠は多いのですが。それ以上にCB750FOUR系は更に上を行く60万台以上生産されましたので、Z1以上にCB750FOURの方が現在も沢山走っていてもおかしくないのですが。やはりカワサキのZ系の方が良く見かけると思います。

色々な理由は有ると思います。Z1はエンジンを降ろさずとも、腰上をばらせるように設計し。整備性の良さが、レースやカスタムに使われやすくなった。(CB750FOURはエンジンを降ろさなければヘッドカバーすら外せない)

また最近はCB750FOURも闇矢屋(やみや)などによって、レストア車は増えてきましたが。Z系は圧倒的に今も手に入るパーツが多いのです。有名な所はドレミコレクションPMCですが、ベースとなるエンジンとフレームさえあれば、あとはリプロパーツで賄えられると言われる程です。

純正のリプロパーツだけでなく70年代は第一線でレースに出て活躍していたZ1ですので、カスタムパーツも多いのです。ヨシムラのマフラーだけでも往年のショート菅、サイレンサーのついたアップタイプが今も有ります。モリワキは特徴的なモナカマフラー。他社からもスチール菅から、カーボンやフルチタンまで、マフラーだけでなく様々なアフターパーツが有ります。更に海外でもebayで検索すれば、沢山の部品が出てくるのですこんなバイクは他には有りません。

筆者のCBX550F等は、もう殆どエンジンの主要パーツは生産していませんし。絶版車はそういう車両の方が圧倒的に多いので、他の旧車に乗る人(特に筆者)はZ1が羨ましい限りなのです

車両こそ高騰している物の。部品が多いので車両の維持がしやすいという事は、一度手に入れてしまえば維持費も有る程度抑えられるので。購入後の苦労は他の旧車より断然ラクです。あたいのCBX550Fみたいに車両の修理、維持が大変と言う理由で、手放す人はそれだけ減る筈ですので。どんどんZ1は市場に出る車両が少なくなって高騰する。所有者が他の旧車よりも増えやすい(減りにくい)ので、それなりに走る車両を見かけるという事では無いでしょうか。同じZでも生産台数の少ないZ750FXのように、車両が無いから高いまともな部品も無いから高い。不人気モデルだったが、現在見直されて高い車両とはまた違う。人気も実力も有ったZ1の歩んできた王の道なのです。

Z750FX

またKZ1000Pという、Z1000Jのエンジンを積んだ(Z1000MK2の時代も)ポリス仕様が2005年まで生産されていました。アメリカ人の良い物は長く愛用する気質は、こう言った愛され方でも解るのではないでしょうか。アメリカでもZ1は高騰していて、更にヨーロッパでも人気が有るので。日本で買う方が安いのでは無いかと言われています。

KZ1000P。頭のKは北米向けモデル。KZはナチスの強制収容所(カーツェット)を意味する為に、ヨーロッパでは使えなかったそうです。メイドインUSA。
こちらは日本の白バイ。750RS-P(模型)

国内モデル・750RS。Z2

72年にZ1がアメリカやヨーロッパで人気を博し日本国内ではナナハンの自主規制により、Z1が販売できない事。また逆輸入など考えられなかった時代。Z1の750cc国内バージョンが発売される事を、ユーザーは待ち望んでいました。

そして73年2月に当時の価格はZ2は41万8000円(Z1は当時の為替で約57万円程)で、発売され。76年にZ750FOURにバトンタッチされるまで(ここでのZ2の定義はZ2Bまでとさせて頂きました)、約3年で2万台程を生産し、大人気となりました。

当初はZ1のエンジンを小さくして、コストを下げようとしましたが。1200ccまでを想定したZ1のエンジンブロックは大きすぎるし。Z1のクランクを使って、ボアダウンのみにしようとすれば。Z1の66mm×66mmのスクエアエンジンから、約60mm×66mmの中低速重視型、ロングストロークになってしまうシリンダーヘッドは共通で使えるようにして、クランクとピストンは新設計し。当初開発していたN600のエンジンと同じボアストロークの、64mm×58mmのショートストロークエンジンを作り上げました

Z2のエンジンは実際はカタログ値の69馬力よりも良かったとも言われショートストロークのシャープな吹け上がりと相まって、操縦性とパワーのバランスが良く。鈴鹿ではZ1とZ2は1秒程しかタイムが変わらなかったそうです。

プレスライダーに使われたZ2

やGPZ900Rによって、80年代中盤くらいから逆輸入が入ってくるようになりました。そしてゼファーが出てネイキッドブームが押し寄せてからは、旧車が見直されて。当時は円高だった事もあって、Z1も日本に本格的に輸入されるようになって、更に人気や価格が加速していきました。その頃はZ2よりもZ1の方が人気があった為、Z2は部品取りでZ1に移植するという事もされていました。Z1000MK2とZ750FX。Z1とZ2の関係のように、当時の考えとしてはエンジンだけスケールダウンしただけのモデルではなく。デカいエンジン「本場」の方に乗りたいと思うのは当然だと思います

Z1の開発でテストしていたN600のエンジンはボア×ストロークが同じなので、Z2のエンジンにも何かしら良い影響はあったと思いますが。それよりもN600はZ650ザッパーの方に大きく影響していて、ザッパー自体はZ1の人気の影に隠れていましたが。750cc(正しくは746cc)のZ2のエンジンは80年のZ750FX(D3)で途切れ。逆にザッパーのエンジンは750ccにクラスアップされてZ750FX-Ⅱに引き継がれ。更に改良されてゼファー750等に2000年代まで使われていました。ライバルである本田技研工業は名の通り、技術力を武器にどんどんと、新しいエンジン(以外も)を作っていく(CBX1000?MVX250F、NR等?失敗もまた多い)のに対して。カワサキはよい物を一度作ったら、スルメイカのように改良しつくす。そんな基本的に保守的ながらも、やる時はやる(マッハやH2のようにやりすぎる?)川崎重工業と。チャレンジ精神の強い(最近は弱い?)本田技研工業の企業理念の違いがZ1とCB750FOURのように世界最速を目指していても産み出されるバイクの違い。個性に表れる。それはこの時代だけでなく、現代のバイクにもよく表れていると思います。

カワサキ・ZXR250
ZXR250のエンジンをベースに改良した。ZX25R

95年までは、1年車検だった

Z2は80年代中盤のレーサーレプリカブーム時には、他の旧車同様ぞんざいに扱われ一桁万円でバイク屋に転がっていたそうです。また95年に法改正される前は、10年過ぎた車両は毎年車検を受けねばならず。84年以前に発売された車両はそれに該当しますが。Z2やマッハ、FXは毎年車検によって維持が困難になって。廃車となってスクラップにされて消えていった車両も少なくないはずです。逆に本気で好きだった人は毎年車検でも維持しつづけ、そんな車両は大切に扱われていたとも言えます。80年頃~それ以前の旧車達が高い理由は、毎年車検だった事も一つの要因だと思われます。

ほぼ日本のみで販売されていた、Z2

FCRの正規ディーラーで有る、ビトーR&Dの社長、美藤さんが77年にアメリカで放浪の旅をしていたそうですが。乗っていたバイクはZ2だったそうで。Z1とZ2ではチェーンの長さが違った(630サイズは同じ、リンク数Z1は92。Z2が100)。当時はチェーンは切ってカシメて使う物では無く。メーカーはエンドレスチェーンで販売し、スイングアームを外して取り付けるものでした。Z2は殆どが日本国内モデルで、アメリカでは販売していなかった(正確には解りません)ので、交換しようにも手に入れられなくて困っていた所。ロスアンゼルスの郊外に構えていたヨシムラならば有るのでは無いかと言われ。行ってみたら有ったそうで、そこから美藤さんはアメリカではヨシムラと出会いレースの世界に飛び込んで、その後ビトーR&Dを設立する事になりました。詳しくは動画の方を見てください。

と、話はそれましたが。Z2はそのヒストリーの通り、Z1の後継機、KZ900はアメリカ工場でも作られたのに対して。メイドインジャパンの、ほぼ国内専用モデルで(少数ながらもドイツなどに輸出された)有りましたZ1は約10万台も生産されたモデルにたいして、Z2は約2万台と5倍以上の差が有る稀少なモデルとなり。CB750FOURは丁度ナナハンだった事もあって、Z2のように日本専用を作らなくても良かった為。勿論高くはなっていますが、Z1とZ2のような価格高騰までは、まだしていないと思われます。(初期の砂型K0は稀少モデルとなっていますが・・。そんな事言ったらZ1の初期型も・・。)

Z2はZ1の部品にされてしまった事。一桁万円で売られて、ぞんざいに扱われていたこと。1年車検だった事。そんな要因も有って数を減らし。現存するのは今や1万台も無い、いや5000台も無いかもしれません。

そして90年頃からのネイキッドブーム。漫画やアニメに扱われ、まずZ1が再注目されて人気が出て、Z2も見直された。人気と希少さによって現在はZ1を超える、プレミアムモデルとなりました。

現代のZ900RSと比べて

先に釘を刺させて頂きますが、どちらが上とか下とかは有りません。今は空冷エンジンも少ないし、キャブ車は日本では作っていません。作りたくても排ガス規制で作れないでしょう。Z1のように世界最速と言う、目指す頂きは違っても。どちらも最終的には企業利益を出すという、その時代に合わせたベストな選択を目指しているのは間違いありません

Z1は現代のバイクしかあまり解らない世代には、まず実物を見て驚かされるのは、大きさでは無いでしょうか。全長2205mmの長い車体は、今ほどマスの集中化などは考えて無かった。特に前後フェンダーやテールランプ、カウルが張り出しているし。ウインカーも大きい

それに対しZ1はスリムな車体、特にタンクはZ900RSと比べてスリムで長い。その分タンクに隠れない、エンジンの幅が大きくはみ出している。1200ccを考えたエンジンで有るし、特にジェネレータとポイントカバーがはみ出ている

左がZ1、右がZ900RS (BITO&RDのコンプリート車)

Z1は旧車らしい、殿様ポジションになるアップハンドル。跨ってみるとアメリカ人向けに作っただけ有って、日本人の体型には遠く感じる。Z900RSもアップタイプで幅広だが、マスの集中化でステムの位置が低い分、少し前傾になる。

カワサキ一番より転載。

Z1は4本出しのマフラーやフェンダー等、メッキの多様されたパーツが多くて非常に綺麗ですが。鉄を多用しているだけ有って、乾燥重量は230㎏とZ900RS(このクラスでは軽い方ですが)の装備重量215㎏に比べれば2クラス分程違う。Z900RSは純正のマフラーが約12㎏、Z1は純正は4本出しでZ900RSと同レベルと重いので、社外品に変えれば一番の軽量化に。しかしZ1の取り回しはやっぱり重いし、乗車時はコーナーの切り返しも気合がいる

PMCより転載

Z1は雨の日は効かない穴の無いブレーキ。重心の高い車体。フロント19インチ、幅3.25(約90mm)。リア18インチ、幅4.00(約110mm)の細いバイアスタイヤ。Z900RSはブレーキはABSが付いてるし、17インチ180mmの極太ラジアルタイヤ。それに比べればZ1は心元なく思えます。ただしタイヤは太くすれば安定感は出ますが、細いタイヤの切り返しの良さと言う利点がなくなります

Z1はマッハⅢ程では無いが。パワー、速さに主観を置いたエンジンなので。今ほど日常の乗りやすさや、味付けを考えて作った訳では無いが。ボア×ストロークが同じ、空冷4気筒エンジンは低速トルクは大きく。また4本マフラーのサウンドは、低回転では2気筒や単気筒のようなノイズが味わえ現代の水冷4気筒の軽く回るエンジンとは違う感覚を与えてくれる。始動時には気を使うキャブレターですが、更に強制開閉式のVMキャブレター。ラフに扱えないと弱冠のクセが有るが、それに慣れてしまえばレスポンスの良さに、自分の感覚が合うと気持ちよく。そのダイレクト感が。クセが癖になる

Z900RSはインジェクションなので、当然始動はボタン一発で、キャブのようにチョークを引いてスロットルを捻って等の儀式は全く必要ない。暖気中は特に気になるノーマルのエキゾーストは最近のバイクにしては音が大きめだが、水冷エンジンだけあってZ1のようなメカノイズは無い。73.4mm×56.0mmショートストローク型のエンジンはヒュンヒュンと軽く回る。スリッパークラッチによってクラッチは一昔前の400ccよりも軽いし、ラフに扱っても低いギアでのエンブレも急にガツンとは来ない。当然加速もコーナーリングもスムーズでZ1より速いし、軽快に走ってくれるが。Z1のような強制開閉式キャブのダイレクトなトルク感は無い

誰が乗っても扱いやすく速いのがZ900RS、最近のバイクに言える事で。マシンの限界が高い分、自分の限界を超えない自制心が無いと、思わぬマシンの裏切りに合う可能性が有る。

旧車で有るZ1は最近のバイクよりも断然限界が低く、スピードを出すとフレームや足回りがヨレて伝わってくる怖さが有る。穴の無いブレーキは雨では効かないし、怖さが有る分。マシンと自分の限界を探りながら少しずつレベルを上げていける。そんな両者の違いでは無いでしょうか

Z1はアメリカを強く意識したデザインです。長くてスリムな車体と、スチールを多用したメッキパーツの美しさと迫力は有りますが。ハーレーのように、本場のアメ車のマッシブさとは違う気品が有り。かつ当時のスーパースポーツ車として、突出した性能を持っていたのです。どちらも持ち合わせたバイクはZ1が初めてなのです。

Z1の残した功績

火の玉カラー(イエローボール)のようなそれまでとは違うデザイン整備や改造のしやすいエンジンマウント方式10年以上カワサキの旗艦で有り続けた頑丈で世界最速な空冷DOHC四気筒エンジンのメカニズムヨシムラのエピソード世界的なレースでの活躍そして半世紀過ぎた現代でも沢山の現存車が走り続け、愛されるマシン

ゼファー1100 火の玉カラー

後にスズキはGS750を出すときに、Z1を熱心に研究したそうです。Z1はこの時代のスーパースポーツの基準となって、スズキのGSだけでなくホンダもヤマハもそして自社製品で有るカワサキも将来は超えていかねばならない大きな壁となって立ちはだかりました

ヨシムラ。スズキGS750

CB750FOURも勿論出た時は衝撃的でしたが、Z1は更に凄い。まとめて見ても伝説が有りすぎて、グルグル回り回って、何が何だか解らなくなるそれだけZ1はオートバイの歴史に名を刻み、大きな功績を残した1台なのです

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