SR400/SR500はどうやって産まれたのか

SR400

1978年に初期型のSRが発売され、約43年程続いたロングセラーモデルとなり。2021年に、国内での販売を終えたヤマハ・SRですが。発売された歴史背景や、時代の移り変わりと共に、どのような経緯を経て行ったのか、纏めてみました。

参考資料

1978年に発売されるに至った経緯

時代は74年に発売された、ホンダ・ドリームCB400FOURが振り回される結果になった、75年に施工された「二輪は中型に限る」と言う。400cc以下の免許が教習制度でとれる限界になり。70年代はアメリカのマスキー法によって、2ストが縮小して行く時代でした。

SRが発売に至った経緯は、元となるオフロード車のXT500が有った事雑誌のエイプリルフール企画として、XT500のエンジンを積んだ架空のロードスポーツ車。「ロードボンバー」を発表した所。反響が大きかった為に、ヤマハのディーラーに問い合わせが殺到し。需要が有る事を知ったメーカーが、開発に至ったと言われているのが通説です。

SRの発売前の350cc以上のロードスポーツ・単気筒車は、国産ではメグロ・スタミナZ7外国産ではBSA・ゴールドスターと言った所が有名でしたが。価格は高額所得者でなければ中々買う事が出来ませんでした。

メグロ・スタミナZ7 Wシリーズのおじいさんと言った所

70年代前半ヤマハは、ホンダ・CB750FOURカワサキ・Z2と言った4気筒車に対抗していたのは、XS650と言った2気筒車。そしてXS750の三気筒車でした。ヤマハはこの頃も個性的なバイクを作っていた訳です。

MT-09のご先祖?

オフロード車、XT500の存在

XT500 エンデューロの文字が誇らしい

オフロード車はまだまだ2ストや多気筒エンジンが多く4ストロークの大きなシングルエンジンのオフロード車は、どうなのか余り認知されていなかった時代アメリカではケニー・ロバーツが腕を磨いたと言われている、ダートトラックとエンデューロレース(モトクロス+ラリーみたいな感じ)の人気も有り。ヤマハは2ストのDT400を作った物の、マスキー法により排ガス規制のクリアが厳しかった為。代替えモデルとして、2ストのエンデューロレーサーSC500をベースに、エンジンは4ストにするといった形で。レーサーとしてはTT500。公道仕様ではXT500と言う風に、76年に発売されました。

TT500

XT500は79年に始まった第一回と、そして翌年の第二回とパリダカで総合的な優勝連覇した車両となり。大きな功績を残しました。その理由は空冷単気筒SOHCエンジンの、構造がシンプルで修理や改造がしやすい。という理由が大きかったのでは無いかと言われています。SRにはこのXTのエンジンが受け継がれている訳で、修理や改造がしやすい。SRが後に長く続く理由になった一つの要因が、ここに既に有る訳です。

その名の通り、SRもダートトラッカーとして改造されるのは、XTが活躍した。アメリカのフラットダートレースをモチーフにされていた訳です。また逆に、オフロード車のXTをダートトラック用に改造する事で。ロードレーサー(現在のモタード)のような、改造の方向性も見えてくる。それが後のSRに繋がっていったのではと、筆者は思います。

SRがキックスターターしかない理由

変わらない事が良かった。特別なバイク、儀式だからと、ある意味美化されているキック始動のみというSRですが。XTのコンセプトがアメリカでのエンデューロレース等で使うから。軽くする為で、そのまま引き継いでいるだけ、と言うのが本音なのでは無いかと、筆者は思っています。後のレーサーレプリカブームではまさに、NSR250Rを見れば軽くする為にキックスタートのみ、と言う仕様になっています。

ロードボンバー号の存在

通説では、77年4月に雑誌が架空の新型車、ロードボンバーを載せ。反響を得たすぐ後の77年6月、鈴鹿6耐(8耐の前身)に、シマR&DがXT500をベースにロードボンバー号を開発させ総合18位の成績を収めたと言われています。ただヤマハは既に開発を進めていて、それを参考に雑誌に載せたと言う説も有るので、正しくはどちらかは解りませんが。6耐の頃にはもう既に、開発が始まっていたのは間違いないです。その後の77年のモーターショーではSRが発表されました。そしてロードボンバー号は翌年SRが発売された後の鈴鹿8耐では、更に好成績の8位を残しました。

多気筒エンジン車や2スト車に比べて単気筒はパワーが稼ぎ辛くストレートスピードは伸びません。単気筒の一番の利点は、シンプルな構造ゆえの整備性の良さ軽さを生かした車重による、コーナリング速度。そして燃費の良さによる給油時間の少なさ。ショートレースでは勝ち目は無くとも、耐久レースでは単気筒でも戦える所が有った訳ですね。

78年デビュー

当初40年近く続くと想像した人は何人居るだろうか?

77年秋の東京モーターショーで発表し、78年3月にSRは400と500が同時に発売されました。後の細かい仕様変更があった物の、まさかこの時に2021年まで続くとは、誰が想像出来たでしょうか。価格は400が31万円。500が万円。当時は爆発的に売れた訳でも無く79年には同クラスのカワサキ・Z400FXといった4気筒車が発売されて、各メーカーの4気筒車に押されるように。またスポークからキャストへとモデルチェンジしたのも有って、2ストのヤマハ・RZ250が出た80年付近はSRの販売台数は落ち込み、伸び悩みました。

設計ではキャストで行くつもりだったが・・。

元々はキャストを想定して作ったそうです。ヤマハはキャストが認可されるようになってからは、いち早く取り入れ。輸出仕様は最初からキャストでした。アメリカではXTやTTの需要は有ったもののSRのような味のあるバイクと言うのは求められて無かった為、売り上げは伸びず。直ぐに輸出はストップされました。

貴重なアメリカモデル

82年の限定スポーク車の売れ行きが良かった為、83年にはキャストとスポークを併売し、スポークに元に戻す形で、変更してからは売上を伸ばしました

大八車と呼ばれ、耐久性重視で重かったフロント19インチのキャスト
この頃のヤマハ車はキャスト車にSPとつけて発売した
1978年 GX400SP

レプリカブームで既にSRはその後のネイキッドの立ち位置にいた

スズキ・RG250Γが火をつけた、レーサーレプリカブームとなった80年代中盤から後半はまた売り上げを落とす事になりました。この時85年にSRはディスクブレーキからドラムブレーキに変更し。高スペックを追い求めるレプリカブームとは全く逆の方向に道を進みました。そして85年にはSRXが発売されたのも有って、87年には生産中止が検討され。89年には一度生産中止になった訳ですが、数か月後にゴルフカートのエンジンを作っていた、他の工場のラインに上手く乗せる事が出来た為に、翻りました。

SRX

そして89年にカワサキ・ゼファーが出て、ネイキッドブームへとなった90年代からは追い風を得て、一気に販売台数を伸ばす事になり。生産が追い付かなくなった為、ゴルフカートの方が追い出されるような形になりました。無い物尽くしのゼファーがネイキッドブームの火付け役になったのですが、SRはレプリカブームの中においても、独自の路線を進み。既に無い物尽くしだった訳で、SRはゼファーを作るヒントになったのかもしれません。

運が良かったとも言える、生産中止の撤回ですが。部品がほぼ同じ400と500を併売した事で、下支えとしてヨーロッパではメインだった500の売り上げが有ったから。またSRは最低でも年間2000台近くは売れていた。そのあたりがヤマハが簡単には手放せ無かった理由では無いでしょうか。

ドイツでは人気が有った

前述の通り、アメリカでは需要が無くてSRは人気が出ませんでしたが。ドイツでは日本の技術で練られたイギリス製のマシンと言う感じでした。ヨーロッパ仕様の500は圧縮比が高くなっていて、33馬力だったのですが。初期はドイツでは400と同じ27馬力と、抑えて発売されました。SR500の実用燃費は約20㎞/ℓで、XT500は同等の燃費でしたが。2気筒のヤマハ・XS400は約17㎞/ℓ。スズキ・GS400は15.6㎞/ℓ。Vツインのホンダ・GL500は14㎞/ℓと、燃費の良い単気筒の利点が、ドイツでは評価されました。そして価格もXTよりも1割安く2気筒勢に比べれば2割も安かったのです。83年には34馬力になり、84年からはSR400のラインナップも追加されました。

グラブバーが無い

もし87年で生産終了していれば、その後96年の9000台近い販売台数のピークを達成する事も無かったし。45年近いSRの歴史を刻むことも無かった訳です。もしその時代にSRが無ければ、ヤマハは逆に違ったバイクを生み出していたかもしれませんし。色々と考えると面白いですね。

SRは積み木

400を想定して

免許制度の事も有って、中型免許車のラインナップを増やさなければならないという事で、当初から400を作る事が決まっていました。500は30歳前後。400は24、25歳くらいを想定して作りました。500は輸出用の幅広アップハンドルや、シートカウルの無いタイプでした。エンジンは4気筒車と違う味付け、シングルらしさを求めました。ただTTやXTのエンジンは軽く吹け上がるエンジンで、味付けには苦労しましたクランクを重くすればいいのは解っていましたが、試作クランクを沢山作ってトライ&エラーの繰り返しでした。500のスケールダウンとして400は、価格を抑える為に一般的にはピストンだけを小さくして。1つの部品の違いで済むように対応するのですが400はスポーティな味付けにしたかったので、クランク側を変えて、ショートストローク化するようにしました。ピストンとクランク両方違う部品になると言う結果になりました。

左が500のピストン 

振動であちこち壊れた

ベースにはエンデューロレースやパリダカで活躍した前述のXT500が有った訳で、SRも何も問題無く開発が進むかと思えば、全くそうでは有りませんでした。ダートをメインに走るXTよりも、舗装路向けに作ったSRは当然常用速度域が上がる為。500にしても吸排気拡大でバルブを大きくしたりして、使う回転域を上げていますXT500が30ps/5800rpmに対して、SR500は32ps/6500rpmとなっています。ヨーロッパの道路事情を考えれば、ある程度は高速性能も求められる。回転数の二乗で振動が増えて行くので、たった700回転の差ですが。これがトラブルの元でした

当時はコンピューターの設計も無く、実際にやってみてのトライ&エラーの繰り返しでした。対策して30分も走って見れば違う所が壊れる。何かしら部品が落ちている。それの繰り返しでした。

SRのフレームはXT500とTT500とほぼ同一のレイアウトとなっています。オフローダーベースなので、最低地上高を稼ぐ為に、フレームにオイルを貯めるドライサンプ方式になっています。またステム付近のヘッドアングルが高いのも特徴的です。現在のバイクはマスの集中化の為に、可動するところは真ん中に集められているので。違いは一目瞭然です。後にSRがカフェレーサー的なカスタムをされるのに参考にされる、70年代の英国バイク(BSAゴールドスター等)もステアリングの位置が高いメーカーもゴリゴリな単気筒のロードスポーツを作ろうと言うより、味を求めて作っていたのが、フレームを見ても解るのではないでしょうか。

その後にレプリカブームの先駆けとなった、ヤマハRZ250のようなスポーツモデルとはフレームを見ても違いが解り。そちらの層にはSRはまだ受け入れられなかった。80年頃の販売台数の落ち込みは、SRが時代としては早すぎたのが、フレームを見ても解るのではないでしょうか。

XT500のフレーム
オイルタンクになっているSRのフレーム

SRはXTのフレームに比べて5キロ重いパイプの厚みを太くしステアリングやスイングアームピポット部分が特に補強されています。溶接が美しくないなんて言われるフレームですが、振動対策の為、溶接個所が多いからです。また補強版なんかも、必ず全部を溶接しないで遊びを作ってあり。そこから振動を逃がすようにしてあります。

こうして今だったらバランサー無しでは考えらない、と言われるようなフレームを完成させた訳です。オイルタンクになっている、メインパイプは76mmととても太く。結果SRのフレームは頑丈で、パワーを上げても先に割れるのはシリンダーなんて言われて。削り出しのシリンダーなんかが改造パーツとして有る訳です。補強もせずに足回りをその後のヤマハのマシン、TZRやXJR400を移植しても。なんの問題も無いのです。足回りの剛性やパワーを上げると、バランスが崩れていき。フレーム補強等が必要になるのが定石ですので、SRは珍しいフレームなのです。

3重構造の氷曲げエキパイ

本来ならばマシンのコンセプトを決めて、それに合わせてスタイリングを決めて行くのですが。SRはXT500のシングルエンジンを使って、色々な事が出来るのではないかと、シンプルなバイクを作るという事で、スケッチで模索していきました。

この頃の大型バイクは、76年のスズキ・GS750や、ヤマハ・GX750と言ったマルチエンジン車が出た頃で。ミドルクラスの丁度良いと言った扱いやすさよりも、技量を要求されるような大型車が産まれて行き。バイクに乗せられていると言った状況になっていった時代でした。

GS750

SRを作る上で一つの目標として、40馬力を出して居たと言うBSAゴールドスターにし。パワーを出す為や、また暴走族等による騒音の問題も有り、マフラーの容量を増やさなければなりませんでした。

SRの純正マフラーは車体とマッチした、とても美しい造形をしています。それを作るためには今では当たり前となっていますが、当時としては画期的なサブチャンバーを設け。見えない所に配置しています。サブチャンバーも振動対策の為に、フレームと接続するようになっています。またリアのアクスルシャフト付近には、逃げを作って車体にぴったり張り付くように(FIで変更、触媒がついた為)、ヤマハ車の特徴とも言える、シンプル&コンパクト&スリムを体現するようなマフラーになっています。

アクスルシャフトの逃げ
純正はサブチャンバーも有って重いです

エキパイにも工夫がされていて。当初はメッキの焼けと、それに伴う内部の錆を防ぐ為に3本のパイプを使った、三重構造になっていました。排ガス規制が厳しくなる中、燃焼効率を上げようとすると、どうしても排ガスが高温になってしまう。既に2重管は有ったもののそのまま曲げてしまえばパイプ同士がくっついてメッキが焼けてしまう三重構造の中を中空構造にする為に、水を入れて凍らせてからベンダーで曲げて、解凍して後端を絞って仕上げました。20秒に1本のペースで大型の冷凍庫を通して、コンベアにぶら下げたエキパイが回って来る様子は、まるで精肉工場のようだったそうです。そういった氷曲げを先に採用していたのはXS750(GX750の海外モデル)で、その後にXS360とSRが採用する事になりました。

しかし3気筒のXSよりSRは、大排気量・単気筒の為にパイプも太く。また3重管という事も有って、曲げるのは大変でした。曲げも3か所入っていて。上側のRは95R下側が200R。そして中間に650Rが入っています(FIで角度が変更)。その95Rの曲げも、殆ど菅の太さの曲げの限界に近い曲げを施しています。単気筒なのでエキパイが両側から見えるという事で、素材のパイプの溶接後が目立たない様、曲げる方向を考えています。またメッキ後の仕上げではバフを4工程、手作業でやっていました。

非常に手間(コスト)がかかる事を、エキパイ一つをとってもSRはやっていた訳です。その後は時代と共に自動化も進み。砂曲げ、そしてコーティングが施されるようになり、2重構造になって行きました。SRは時代と共に価格もどんどん上がって来ましたが、物価を考えても古いバイクを、同じように作り続けていく事は、メーカーとしてはコストが必要な事で、後述する特殊な作り方のフェンダーやマフラーを見れば、お値打ちとも考えられなくは無いでしょうか。

手作りと言っても良いようなSRのフェンダー

現在はあえてクラシック感を出す車種以外は、FRP製が主流となっているフェンダーですが。SRは当時としては物珍しくも無い、むしろ樹脂製に置き換わっていった時に発売したので。時代遅れとも取られかれなかった、スチール製のプレス加工で作られたメッキフェンダーです。バイクはプレスフェンダーが一般的だった、最後の方にSRが採用した訳ですが。当初からフジコーポレーションがフェンダーの制作を担っています。

プレス

SR以前の戦後の頃は帯状の真っすぐな物を、ある程度の長さに切って。上下についたRの違う大きなローラーの中を通す、ローラー工法で形を作っていたそうです。

ワイヤーの入ったリヤフェンダー

リヤフェンダーは強度的な問題で、クラック抑制の為にフチの折り返しの所に、針金が入って(90年代まで?)います。フェンダーの湾曲している部分にワイヤーを通すので、3次元的な作業になる。先端が爪のようになった機械で、針金を少しずつ出しながら、細かい振動で折り曲げていくそうです。

SRの発売当時でワイヤーを使っていたのは、フジコーポレーションが作っていた180種類の中の、約20種類程だったそうです。

プレスにも熟練の技術が必要だった

フロントは部品単位の工程を除いても12工程で、その後にバフ等の工程も必要でした。外観も重視されるフェンダーなので、メッキ後にもバフの磨き作業が必要でした。3Kの仕事で、当時から人材の確保等、いつまで続けられるか解らないと言われていました。

ステーが一体型ですが、絞り工法が古いままなので、新しい工法と比べれば工程が多くなってしまう。70年代はまだスチール製のフェンダーの需要が有ったので、注文が多ければフェンダー専用として一貫したプレスラインを使えば効率よく作れたが。需要が減ってプレスが主流でなくなれば、可動時間の少ない所は休ませて置くわけにはいかず。ならば工程ごとに分けて加工をし、1工程毎のまとめた作業になる。加工毎に部品をストックしておかなければならない、傷をつけれない為に専用の台車が必要になったり。錆を防ぐ為には屋内保管が必要になる。また時間のかかるバフやワイヤーを入れる作業を見越したスケジュールで、作業をせねばならないと、手間がかかる方向になっていきました。

1枚の鉄板からプレス機で形を決めて行くのですが、この最初の工程が重要で。絞り加工がしやすく、表面の綺麗になりやすい材料を、ヤマハの研究部と決めてブレンドしていました。しかし毎回同じようには出来ず、ロット毎に板の性格に合わせてプレスする必要がありました。

バフやワイヤーを入れる工程は、どうしても手作業になります。そんな感じで樹脂製のフェンダーに比べれば、SRのようなプレスフェンダーは手作りと、言われる理由があった訳ですね。

初期のフロントが19インチのタイヤから85年型から18インチになり。フロントフェンダーもステーを短くして、隙間を埋めています。

社外品に交換する場合の注意点

フロントフェンダーはスタビライザーの役目も担っているので、社外品に変える時は考慮する必要が有ります。リアフェンダーはテールランプとの間に、しっかりとした防振ゴムが入っています。ここも社外品で対策していないようなテールランプは、バルブが切れやすくなったり。ナンバープレートにも繋がっていて、ナンバーの破損に繋がりやすいので注意が必要です。

エンジン

前述の通り50年代産まれの、BSA・ゴールドスターDBD34(OHV499cc)の40馬力を目標にしたSRですが。500は32馬力ですので、特筆すべき点は無いとも言えますが。DBDは信頼性も低かった(この頃のイギリス製品はそんなもの?)

DBD34

耐久性という点では、元となったXT500がパリダカで活躍した事。それを元に熱量を落としたSR400は大きなカブと言われる程、耐久性の良いエンジンになっています。

カムシャフトは85年に表面処理を変えたり。88年からはカムプロファイルも変更し、低速トルク型になっています。

85年式 ドラムブレーキ化等 大きく変わった

シリンダーは400と500で刻印は違うが、互換性は有ります。シリンダーヘッドはオイルラインが変わっていたり、83年90年と熱対策でバルブガイドがXV750の物に変わりました。

XV750

クランクケースは年式によって互換性が無いので注意が必要です。ACマグネットジェネレータが94年型から常時点灯式に対応した物となっていますが、93年式は弱いとよく言われています。

ロングセラーによって

40年も前と比べれば、工業ロボットの進化や金属素材の配分、加工のノウハウにしても目まぐるしい進化が有りました。メーカーは利益を上げなければならない宿命です。当時は手作業や手間を掛けなければ作れなかった事も、合理化の名のもと品質が落とされたり、工程を省かれたりするものです。ある意味変わらなかった、変えられなかった部分が沢山残るSR古き良き物、悪い物が残っている所がSRの愛される理由の一つだと筆者は思います。

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